写真 佐藤有(たもつ)

1937年生まれ
20歳の頃から身近な自然や子供たちを撮り続ける。
現在、茨城県龍ヶ崎市にて写真館を経営。


なつかしの昭和の
     子どもたち
国書刊行会

 

文 田中秋男

1948年生まれ
CMプランナーとして約35年ほど糊口を凌ぐ。
50代半ば心臓に病を得、
職を辞して文筆業に励む。


筑波の牛蒡 敬文舎 

 座布団と言うものがあります。これを二つ折りにし、背に負ぶいます。
 昭和は30年代、幼女たちはそんなことをして遊びました。座布団を背にして、母などに、帯が胸の前で交差するように結んで貰います。これで赤ちゃんが出来ました。後は、お姉ちゃんたちやおばあちゃんの子守りの仕方を真似れば、もう、いっぱしのお母さん、もしくは子守りのお姉さんなのでした。厳密さを求める子は自分の頭を手拭いで後ろ髪を包むようにして覆い、前額のところで結びます。それは、自分の後ろ髪が赤ちゃんの顔に当たらないための用心からです。おばあちゃんの子守りはともかく、少女たちの子守りのスタイルはその様に手拭いで髪を覆っていたものです。とても細やかな赤ちゃんへの配慮でした。
 これで完璧、彼女は子守りさんになりました。
 おお、よしよし、とか、そんなにぐずっちゃだめよとか、顔を時には背の赤ちゃんの方にねじっては様子をみたり、座布団の赤ちゃんのお尻の辺りに手をまわして、体全体で座布団を上下に揺すったりします。おお、よしよし、おしっこしたの? してないよねェ、いい子ちゃんでちゅねえ、ご本人だって、口調が幼児語を抜け切れていないのに、大人たちの、特にご近所の小母さんたちから自分に向けられたそんな幼児語を駆使して、座布団赤ちゃんをあやし、何時間でも一人遊びに興じます。彼女たちの観察力は大したものです。時々はでたらめな自作の子守歌めいたものを口ずさんでいたりもします。
 挙句には隣近所まで行って、小母さんたちに赤ちゃんを見て貰い、一芝居が演じられたりします。小母さんたちも、彼女のその座布団を負ぶった姿の稚(いとけな)さにこころ打たれるのか、目を細めて、可愛い赤ちゃんでちゅねえ、なんてまずは言います。時には男の子? 女の子? なんて尋ねたりします。すると、女の子! きっぱり答られる子も、どっちだったけ、分からくなる幼女もいたりします。まだそこまで決めてはいなかったのですね。彼女にとっては性別などはともかく、ただの赤ちゃんでよかったのでしょう。いくちゅ? なんて問われると自分のことかと思い、四本指でよっちゅなんて間違うのはご愛敬ですが、大概は負ぶった赤ちゃんのことと理解し、とっちゅ(一歳)とか、たっちゅ(二歳)とか赤ちゃん語で答えたりします。


  私にも5歳ほど年下の妹がいましたが、彼女もよくそんなことをして遊んでいました。近所には彼女と同い年の女の子もいましたから、時には競うようにそんななりで遊んでいる姿も覚えています。私などは二人を遠くに眺めながら、座布団なんか負ぶって何様のつもりなのだろうか、などと思っていました。座布団は座布団、赤ちゃんなんかで金輪際ありません。女の子はホントに浅はか、おバカなものだなんて思ったり、なんで座布団をあやして面白いのか、彼女たちの心持ちがよく理解ができませんでした。そのくせ、自分だってその年ごろには、通りを華やかなボディの観光バスが通ったりするとイケマセン、早速、庭で乗っていた三輪車を横倒しにして、車輪の一つをハンドルに見立てては運転手になったつもりで、口ではエンジン音を真似したりして、うっとりとしては遊んでいた身、女の子のことをとやかく言う資格などは毛頭ありません、反省!
 さて、反省のついでに「子守りという労働」の歴史を、ここで軽く振り返ってみましょうか。と、大見えを切ったところで、深い蘊蓄が私にあるわけではありません。赤坂憲雄さんの「子守り唄の誕生」(講談社学術文庫)を手掛かりに、多少は松永伍一さんの著書(「日本の子守歌 民俗学的アプローチ」紀伊国屋新書、等)などもサブテキストにして、そのほんのさわりに触れてみるだけのことです。
 私たちのころの子守りと言えば、八歳から十歳前後の少女が幼い妹や弟の面倒を見ているか、親戚や近所の子を頼まれて負ぶわされている、そんな光景でしょう。でも、時代が江戸の世までに遡れば、労働として子守りです。言わば口減らしとして、貧しい家の娘さんは庄屋をはじめとして、中小地主や商家さんなどに呼ばれその労働に従事します。明治の世にあっても、その事情は変わりはなかったでしょう。その結果、英語で言うララバイ、純然たる寝かせ唄が採用されます。難し気に言えば揺籃歌ですね。明治のころには、すでに唱歌的になっているでんでん太鼓や笙の笛等の歌曲です。
 その中でも、特筆されるべきは「守り子唄」とも称される、子守りの労働のつらさや自分の境遇を嘆く唄が盛んに歌われるようになったことです。いつしか、子守唄といえばただの揺籃歌ではなく、こちらの方が主流になりました。そして、その代表選手が五木の子守歌でしょう。それらは球磨地方を中心に五十も六十も採集されていますが、そこには流浪の民、杣人などの唄が混在した時期もあったといいます。松永伍一の論考なども参考にいえば、五木のそれらは被差別部落の子守歌との混交を経て、やがて、その情趣は細井和喜蔵の「女工哀史」に象徴されるような、紡績業などの女子労働の哀話へと収斂されていきます。
 しかし、私の話はそちらの道筋は取りません。大きく迂回して、「子供の想像力について何ほどかのこと」を語って、まずはこの稿を了えるつもりです。
 さて、その前に、限りなく正調に近い「五木の子守り唄」を、松永伍一さんの「日本人の愛の唄」(真昼文庫、新興出版社)から引用し、以下に挙げて置きましょう。

  熊本・五木の子守唄

  おどま盆ぎり盆ぎり
  盆から先ァおらんど
  盆が早よ来りゃ 早うもどる

  おどま非人(かんじん)々々
  あん人たちゃよか衆
  よか衆よか帯よか着物(きもん)

  おどま非人々々
  ぐわんぐわら打ってさるく
  チョカで飯炊ァて 堂にとまる

  おどまいやいや
  泣く子の守にゃ
  泣くといわれて 憎まれる

  おどま馬鹿々々
  馬鹿ンもった子じゃっで
  よろしゅ頼んもす 利口か人

  おどんが打死んだちゅうて
  誰が泣ァてくりょか
  裏の松山 蝉が鳴く

  おどんが打死ねば道ばちゃ埋けろ
  通る人ごち 花あぎゅう

  花はなんの花
  つんつん椿
  水は天からもらい水


     ******次回(5月10日予定)へ続く******

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