写真 佐藤有(たもつ)
1937年生まれ
20歳の頃から身近な自然や子供たちを撮り続ける。
現在、茨城県龍ヶ崎市にて写真館を経営。
なつかしの昭和の
子どもたち
国書刊行会
文 田中秋男
1948年生まれ
CMプランナーとして約35年ほど糊口を凌ぐ。
50代半ば心臓に病を得、
職を辞して文筆業に励む。
筑波の牛蒡 敬文舎
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無縁仏の塚で(あるいは、私の「願人坊」)。
その剽軽さで村人から親しまれ、しばらく無沙汰をしていようものなら、「あら、まあ、来たの」などと、久闊を叙されるような老いた小太りの乞食がいました。彼は近傍の在所から、気まぐれな間隔で、ふらりとわが村にやってくるのでした。村人は近くの町場の名を挙げ、彼はそこの者だと言う人もおりました。しかも、町の素封家のオンゾウシではあったが、然るべき歳に至って、やおら身を持ち崩したのだそうです。どんな事情によるかは、当時、子供であった私はそのようなことに取り立てての関心を持ちませんでしたし、ですから、たとえ、耳にしたとしても、私の記憶には残らなかったと思います。よって、その素性の謎は謎のままにこの稿を綴ります。
季節は桜の花の頃、墓地の近くの小塚でのことであったと思いますが、真ッ昼間からひとり酒盛りで浮かれている彼を、私は見たことがあります。そこは村にあっては唯一の無縁仏の塚で、その意味合いも子供の私にも朧気ではあるが承知されていました。というのも、お盆やお彼岸の墓参りの時には、一通りのお参りが済んでの帰路、そうそう無縁仏にもと、必ず彼らのためにお線香を残し、家人共々、お線香を手向けた所でしたから。聞きたがり屋の私がその意味を祖母などに尋ねなかったはずがないのです。行き倒れを雪倒れと長いこと誤解はしていましたが、その言葉が持つ「身寄りのない者の、路傍での不慮の死」というイメージは間違いなく幼い私に刻み込まれていました――雪吹雪の村の野道に病んだ男が蹲るように倒れ伏しています。その漂泊の身の上に雪はこんこんと降り積もり、男は真白き雪の衾に覆われて息絶えている…。
藪深く無縁の塚はあり、一本の桜の老木が背後から塚の正面の小さな広がりを抱えこむように覆っていました。小太りの老いた乞食はその身の上を思えば小奇麗な手拭いを小道具に、満開の桜の下で舞っています。彼は梁塵秘抄のかの歌、遊びをせんとや生まれけんを口遊んでは、そうでないとするなら西行師の、願はくば花の下にて春死なん…、だったとしたいところですが、これは後年の記憶の捏造だとするよりは、そう書きたい私の現在の心境と願望とにすぎません。実際にはこの国の大正期に全国的な流行を見たという、その名も梅坊主の「カッポレ」あたりを口三味線で踊っていたと思われます。随分と出鱈目な踊りとも見えましたが、その舞い姿はどこか飄逸で、子供の私もしばし見惚れました。
彼はその若き日、かなりの遊び人であったことは否めません。老いても尚、そして、現在の境遇にも拘わらずその手は節くれだってなどいず、白くぽっちゃりしていて、そのことは彼のひとつ話のご自慢でした。と同時に、ご婦人に対する彼の物腰がその昔を雄弁に物語っていました。村のどんなご婦人方にも、老若を問わず、腰の曲がった老婆からセーラー服の少女にさえ、出会えば必ず我が身をとことん貶め、そのことが当の女性への絶妙な褒め言葉になっている地口の類いや与太を連発しました。決って、そこには性の匂いが付き纏っていたに違いがありません。ときおり交える彼のしなにはけったいな腰つきなども含んでいたのですからーーまるで犬猫の交尾の姿を彷彿させるような。
彼の一連の無類のギャラントリィ、ご婦人に対する慇懃振りは村の女性には新鮮らしく、そこでは女性たちの嬌声が常に挙がりました。こんな人までも、と思えるようなご婦人ですら身をくねらせて、彼の蓮っ葉な駄法螺に蓮っ葉に反応しました。そのことが子供の私を何より驚かせました。子供は子供なりに、そこにご婦人方の「貞潔な猥褻」のひとつも垣間見たのかもしれません。どんな大人の女性にもヤクザな心が潜んでいて、それがヤクザな男のヤクザな気持ちと照応する…。
彼は決してその裸身を人目に曝したことがなかったと思いますが、川辺で身を清めている時、私は彼の背に、その背いっぱいに見事な彫り物が施されているのを窃み視たことがあります。
〔願人坊(ぐわんにんばう)〕
雪のふる夜(よ)の倉見れば
願人坊を思い出す。
願人坊は赤頭巾(あかづきん)。
目も鼻もなく、真つ白な
のつぺらぽんの赤頭巾。
「ちよぼくれちよんがら、そもそもわつちが
のつぺらぽんのすつぺらぽん、すつぺらぽんののつぺらぽんの、
坊主になつたる所謂因縁(いはくいんねん)きいてもくんねへ
しかも十四のその春はじめて」………
踊(をど)り出したる悪玉(あくだま)が
願人坊の赤頭巾。
かの雪の夜(よ)の酒宴(さかもり)に、
我(わ)が顫(ふる)へしは恐ろしきあるものの面(かほ)、「色のいの字の」
白き道化がひと踊(をどり)………
乳母(うば)の背なかに目を伏せて
恐れながらにさし覗(のぞ)き、
淫(みだ)らがましき身振(みぶり)をば幽(かす)かにこころ疑ひぬ、
なんとなけれどおもしろく。
「お松さんにお竹さん、椎茸(しひたけ)さんに干瓢(かんぺう)さんと………
手練手管(てれんてくだ)」が何ごとか知らぬその日の赤頭巾、
悪玉踊(あくだまをどり)の変化(へんげ)もの。
雪のふる夜の倉見れば
願人坊を思ひ出す。
雪の夜に戯(おど)けしは
酒屋男(さかやをとこ)の尻がろの踊り上手のそれならで、
最(もと)も醜(みにく)く美しく饑(う)ゑてひそめる仇敵(あだがたき)、
おのが身の淫(たはれ)ごころと知るや知らずや。
――以上は、北原白秋の「願人坊(ぐわんにんばう)」の全行なのですが、「無縁仏の塚」を認めた後、何気なく手にした白秋の「思ひ出」の中に見出だしたものです。私はその余りの近似の気分に少なからず驚き、そっくりその ままを引き写したいと思いました。以って了とされたい。
※付記
遊びをせんとや生(うま)れけむ、
戯(たはぶ)れせんとや生(むま)まれけん、
遊ぶ子供の声きけば、
我が身さへこそ動(ゆる)がるれ。
しみじみ、かの歌をここで思い遣るに、中世の戯れを運命(さだめ)とする遊女が童子の戯れ唄に不意と心を奪われ、思わずその身を揺るがす、そんな遊女の姿が目に浮かぶようだ。帰るべき家郷を諦めた私たちに帰り得る場所があるとするなら、それはそのような『ひと時』もそのひとつなのかも知れない。少なくとも私に言えることは、辛うじて身を持ち崩しこそはしなかったが、何ほどかの「しるし」を身に帯びて、どこかで、たしかに私は人の道を踏み外したのだ――遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、その時、彼女自身がひとりの童女なのだ。
――秋男さんの一語一冊⑧「遊びをせんとや生まれけん……」より。
日常の仕事をやめて何かをするのが、アソビの本義である。タハブレも、常軌を外れるという意をふくむ。ところが遊女には、常人とは違ってなりわいそのものが運命としてのアソビであった。遊女のそういうなりわいとしてのアソビと童子らの無心なアソビとの二相が、かくてここで奇しくも等価関係に置かれるのである。
――「梁塵秘抄」西郷信綱著(日本詩人選22、筑摩書房)より。
******次回は、7月25日の予定です******
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豊年斎梅坊主「かっぽれ」
シーボルトのお抱え町絵師・川原慶賀よる願人坊主
(江戸時代人物画帳より)
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