写真 佐藤有(たもつ)

1937年生まれ
20歳の頃から身近な自然や子供たちを撮り続ける。
現在、茨城県龍ヶ崎市にて写真館を経営。


なつかしの昭和の
     子どもたち
国書刊行会

 

文 田中秋男

1948年生まれ
CMプランナーとして約35年ほど糊口を凌ぐ。
50代半ば心臓に病を得、
職を辞して文筆業に励む。


筑波の牛蒡 敬文舎 

 

 

 〔弓取り式〕

 村には芸事の好きな旦那衆もいれば、好角家の旦那衆もいました。
 彼らは庭先に簡易ではあるが本格的な土俵さえ設えて、草相撲大会を催したりしました。村の力自慢はもとより、近隣の村々からも屈強な兵が集まり、中々の盛況を博しました。私はどんなにかこの催しを愉しみとしたことでしょう。そこには、それなりの金品の授与などがあったりした思いますが、しかし、ここではこれ以上のことは触れないつもり。但し、私たちのことともなれば話は別です。当時の子供たちはとにかく相撲にうち興じました。校庭だろうが家の庭前だろうが、露地裏だろうが取っ組み合いました。何しろ、身ひとつあれば可能な遊びだし、しかも土俵にはこと欠かないと来ています。棒切れで小円を地面に描きさえすれば、そこが即ち、私たちの土俵なのでしたから。
 産土神を祀る神社の境内で、近所のお兄ちゃんたちは私たち年少者を含めて、毎日のように草相撲に興じましたが、そんな子供たちの中へオンツァはちょくちょく飛び入りし、中学生にコロコロ負けたりしました。が、竹箒を手にして模写するオンツァの弓取り式は軽妙、かつ秀逸でした。
 私たちはその頃出現したテレビ放送で、「弓取り式」なるものを見知っていました。当時、テレビは村の分限者の中でも有数の家に、多分、一軒か二軒かに所有されていたに過ぎませんでしたが、大相撲のここ一番の大勝負の時には大騒ぎの村人に混じって、私たちも大挙して押し掛けました。だから、結びの一番の後に取り行われる一連の所作事は夙に承知されていたというわけです。しかも、厳粛であるはずのそのパフォーマンスは私たち子供には奇ッ怪で、むしろ間抜けな、どちらかといえば滑稽な代物として受け取られていました。
 さあれ、オンツァは箒の弓をこんなにも器用なところがあったのかと、舌を巻くほど巧みに繰りました。興が乗ると、彼の見せ場でもありましたが箒を肩に担ぎ、大きくひとつ四股を踏むや、蹲踞した股ぐらをこれでもかこれでもかと打ち震わせ、いよよ迫り上げていきます。なるほど、その所作は真を穿っていて、私たちは腹を抱えて笑い転げました――彼は充分私たちの、少なくとも私のスターでした、たとえトリックスター(お道化もの)だったとしても。

〔アケビ〕

 私は子供のころ、すこぶるチビでしたが妙に相撲が強かった――その証拠に、私は村の青年団主催の子供相撲大会で、小学校三年の部で五人抜きを果たしたことがあるのです。その思い出は拙著「筑波の牛蒡」に書きました。
 ここではその快挙に対しての、オンツァの振る舞いについて語ろうと思います。
 五人抜きをした翌朝、家の門口のところに、その実をたわわに付けた一抱えほどのアケビの蔓枝が置き捨ててあったのでした。当時ですら、アケビなどは近隣に森林を持たない私の村にあっては珍しい果実で(旧家の奥深い屋敷林にないことはありませんでした)、かつて、私はこの果実をオンツァからプレゼントされ、その色合いのおぞましさや見た目の不気味さ(だって、よく肥えた灰白色の芋虫みたいじゃない?)に尻込みしつつも口にした時、余りの甘さに恍惚りしたことがあって、あれやこれやとこの果実の生態について五月蝿いほどに問い質したことがありました。その質問責めにはさすがのオンツァも呆れ果て、邪気のない「いや、もう」を連発し、まいったなぁ、私の前から逃げ出しました。そんなこんなを思ってみてもこれは彼の仕業に違いがなく、私の偉業「五人抜き」への彼なりのお祝いなのでした。それは間違いないことです。
 それにしても、このアケビはこの村を貫流する大河の向こう、その向こうの地で採られたものには違いありません。なぜかといえば、河向こうだってこちらと同様、河沿いに拓けた田園地帯でしたが、どういう河川の堆積作用のなせる業か――地理学にいう、自然堤防のなれの果てなのか、多少の丘稜地を含んでいて、そこには森の果実や木の実、はたまた茸の類いが豊かなのでした。志のある者はそれらの採集の為に、わざわざこちらからそちらへと遠征します。当時、村の近くにはこの河流に架かる橋梁などありませんでしたから、随時に雇う渡し舟を利用するか、更に冒険的な者なら、自ら田舟を操り出しては渡河を果たします。
 だから、オンツァはどのような手立てをそこに採ったかは定かではありませんが、私のためにあんな河を渉ってまでして、これらの贈りものを、なんと日を改めずして、あるいは今日の日の朝まだきの時にか、川向こうから採集して来てくれたことには違いがなかったのです。私にはなぜか確信をもってそう思われていました。きっと、有り難いとはこのようなことを言うのでしょう、ありがとう。
 私にとってはこのオンツァの森の果実の贈答が、五人抜きの賞品であった熱血少年による南洋冒険譚の豪華本のプレゼントともども、一筆認めたいほどの、少年時代の忘れ難い思い出のひとつなのでした。

  ☆☆☆

 この稿を以って「記憶の中の異人たち」はひとまずの了とします。次なる「子どもの領分」の展開を、お楽しみください。



   ******次回は、12月1日の予定です******

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アケビ




















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