写真 佐藤有(たもつ)

1937年生まれ
20歳の頃から身近な自然や子供たちを撮り続ける。
現在、茨城県龍ヶ崎市にて写真館を経営。


なつかしの昭和の
     子どもたち
国書刊行会

 

文 田中秋男

1948年生まれ
CMプランナーとして約35年ほど糊口を凌ぐ。
50代半ば心臓に病を得、
職を辞して文筆業に励む。


筑波の牛蒡 敬文舎 

 

 

 尚も、私は村を流浪する者たちについて語りたいと思います。所謂、門付け、乞食(ほいと)たちのことです。

〔「巡礼伶人」たち〕

 彼らは頻繁に私たちの村を訪れました。
 意外と思われるかも知れませんが、その身には目に見えてのハンディ・キャップを担った者は少なく、概して年老いた者たちでした。中には四つ竹を巧みに操り、何やらの唄を歌いながら門付けして歩く若い男もいて、でもね、大方の彼らは子供の耳にもさほどには上手と思われませんでした。また、そこには老婆や老嬢の姿もあったと思われますが、私には性を異にする人たちの記憶がないのでした。女性のホイトなどいなかったのでしょうか。いや、稀に見る彼女たちには男のそれより、漠然とですが、どこか怖いような思いを抱いた節が私にはあります。定かではありませんが、そのような記憶もあるにはあったのです。ですから、ここには記憶の捏造というより、記憶の抑圧が関与してそうです。ですが、煩雑を避けたい一心から、ここでの私はそのような記憶の生理、換言すれば遠い記憶の心理の機微に殊更に立ち入ろうとは思いません。フロイトによれば、夢でさえ意識下の意識、無意識の全的な発露ではなく、所謂「検閲」を受けるそうですから、ましてや記憶おやです。
 ともかく、私たちは老若男女、彼らを一緒くたに「おガンジン」と呼びました。では、オガンジンとは何でしょう。ご承知のように、これは「お勧進」です。勧進聖、願人坊主のことでしょう。広辞苑には「社寺・仏像の建立・修繕などのために金品を募ること」とありますが、いつの日にかその本来が忘れ去られ、物乞いそのものを指す語彙に成り下がったわけです。
 因みにホイトは、柳田国男の「神に代りて来たる」には「ホイトは、ほぎ人」と見えます。神を言祝ぐ人ほどの謂いです。では「乞丐(かたい、かったい)」は? 文字通りに「傍居」、今にいうハンセン氏病者のことでしょう。それは折口信夫の「巡礼伶人の生活」の中で知りました(「傍居」の能記と所記が時代的情実によるものであったことはここに明記しときます)。「ものもらい」だって、折口の「翁の発生」によれば、その本来は何も金品を貰って歩いていたわけではありません。ここでの「もの」とは人や田畑に憑く霊物のことです。だから、彼らは村人たちにとっては悪疫駆除を旨とする、有り難き「まれびと(客神)」なのでした。そして「ものよし」は「物吉」で寿詞(よごと)を唱える神人。「ほかい(呪言)びと」だって淪落した姿をそこに晒しているからといって、単なる浮浪者などではないはずです――なべては巡礼伶人!
 彼らは村にやってくる季節はずれの獅子舞い同様、私たちにとってはどこか懐かしくも目出度き人々なのではあったのです。それにつけても「巡礼伶人」とはなんとも美しい術語ではなかろうか(折口信夫のタームはどれも床しく美しいものですが)。因みに伶人とは麗しき楽人です。よって「巡礼伶人」は麗しき流浪のミージュシャンとなるわけです。ここで与太のひとつも挟めば、われらが「ギターを持った渡り鳥」こと小林旭は、銀幕の巡礼伶人のエースでもあったのでした。
 もとい、では、おガンジンが軒前に立つと私らはどうしたものでしょうか。あぁ、おガンジンだとばかりに米櫃から、手塩皿で一握りか二握りほどのお米を掬って、彼らの頭陀袋に入れてあげました。農家の昼日中は家人が留守勝ちで、概ねそのような役目は私たち子供か、年老いた者に託されます。稀におガンジンの方からお米ではなく、この度はお銭(あし)にして欲しいと遠慮勝ちに申し出ることがありました。そんな場合には、彼らの差し迫った何ほどかの事情を察し、五円ほどを差し上げることもあります。極めて稀にですが、生憎、五円玉が見当たらない時などにはエイ、ヤッとばかりに十円! そんな時の彼らの喜びようは一入でありました。
 当時、その赤身からの連想でしょう、彼らが十円玉をマグロと呼んでいたことを小耳に挟んだことがあります。因みに五円玉は彼らの隠語でチクワ(竹輪)だったでしょうか、チクワの謂れはご説明するまでもありませんね。それらの言い回しにはエもいわれぬ気分があって、私は好きです――チクワで結構、えっ、マグロ、ありがてぇねえ。

☆☆☆

 私はオガンジンを恐いと思ったことも、オガンジンから恐い思いをさせられたこともありません。私の記憶に拠れば、彼らは私たちにどんな災いも不幸も齎さなかったと思います。一方、私は彼らの境遇を羨ましく思ったことはあっても、同情などしたことがありません。どうして同情や憐憫などあり得たでしょうか。ボードレールに言わせれば「慈善とは背徳の喜び」だそうです。ニーチェのツァラトゥストラなら「神の同情にせよ、人間の同情にせよ、同情は恥知らずである」などと語るかも知れません――「助けようとしないことは、助けようとすぐに駆けよってくる徳よりも、高貴でありうるのだ」(手塚富雄訳)。むべなるかな、子供ほどそんな「背徳の喜び」に遠いものはなく、また、高貴なものはありません。
 閑話休題。
 当時の私の不思議は、彼らはどこからやって来てどこへ帰るのか、その一点にだけあったような気がします。
 私はかつてある妙齢の女性と、彼女は都会育ちの人でしたが、どうした弾みからか、幼少時に於けるそのような者たちの思い出を語り合ったことがあります。その折の彼女の発言のひとつに、「彼らにはなぜか付いて行ってしまいたい衝動に駈りたてられた、しかも、おぞましいなりの者であればあるほど」とあって、その言は私に少なからぬ衝撃を齎しました。そのような心の働きは少女特有のものなのか、それとも子供一般には本来、そのような傾向があるものなのか、私は迂闊な自分を恥じました。というのも、私が彼らに憧れたのは、何よりその食事風景でした、などと暢気なことをくっ喋っていたにすぎないのでしたから。
 私にだって、思えば似たような衝動がなくはなかったのです。「神隠しー異界からのいざない」、そのようなことはいずれは私なりに語ってみたい気もしますが、河原や神社の境内で、二、三人の仲間とひとつ鍋から汁掛け飯のようなもので昼食を摂っている彼らの姿を見るにつけ、私にはどんなにかその食事が美味しそうに見えたことでしょう。それもまた、本当のことではあったのです。お味噌汁をご飯に掛けて食べようものなら、乞食喰いと家人から、特に祖母からは忌み嫌われていたので、その思いは尚更のことでした。

※付記
 「しかし、その一方では、神隠しという語には、私が思いを託したように、善なる神霊に招かれてユートピアに遊ぶといった甘美な意味あいもふくまれている。『神隠しにあったのだ』という村びとの言語には、恐ろしい神に強制的に連れ去られて失踪者は悲惨な体験をしているだろうとの思いとともに、ひょっとして善なる神の招きに応じてユートピアに行ったのだという思いもこめられているのである。そうしたユートピアとはどのような世界であったのか。……」(「神隠しー異界からのいざない」小松和彦著、弘文堂刊)より。


坊さん 坊さん 何処ゆくの
あの山越えて酢買ひに
わたしも一緒に連れって
おまんが来ると邪魔になる
このかんかん坊主 くそ坊主
うしろの正面 だーれ

 倉田正邦が採集した三重県の『わらべ唄』の一つである。別に誘拐しなくっても子供は、あの世から迎えにきた親切なひとの後についていってしまうものである。「お前がくると邪魔になる」これは親が子供に、知らない人にはついていってはならぬと言い聞かせる文句である。「うしろの正面」とは気味の悪い言葉である。後の正面は鬼の世界、ふっと後を振り向いたらもういないかも知れぬのである。後を振り向くなという民話伝承は多い。子供の一つ身の着物の背中に、「背守り」という印を縫いつける地方があるが、それは後ろの正面魔除けなのである。子供の後はつねに別次元なのである。子供はそれをよく知っている。子供は後に別次元を背負っている存在なのであるーー(「童子考」郡司正勝著、白水社刊)より。




   ******次回は、7月15日の予定です******

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