写真 佐藤有(たもつ)

1937年生まれ
20歳の頃から身近な自然や子供たちを撮り続ける。
現在、茨城県龍ヶ崎市にて写真館を経営。


なつかしの昭和の
     子どもたち
国書刊行会

 

文 田中秋男

1948年生まれ
CMプランナーとして約35年ほど糊口を凌ぐ。
50代半ば心臓に病を得、
職を辞して文筆業に励む。


筑波の牛蒡 敬文舎 

 

 

 まずはシバサキのツネのことから語ろうと思う、と言っても、私は子供時代に彼を実見したことはないのでした。それどころか、語るほどの、彼の情報を持っているとも思えないのです。それで、私は何を語るというのでしょう。

「シバサキのツネ」のこと

 シバサキは私の在所の隣村ですが、その隣村の名が話柄に上ると、子供の私たちは無条件に、手首の先を意味ありげに震わせてはチューキ、チューキ、シバサキのツネ! と叫んだものです。それで、ひとしきりの安易な笑いを仲間から得るのでした。
 そんなわけで、私たち子供の仲間にあっては、シバサキはいつでもツネと分かちがたく結ばれていて、それはまるでシバサキの枕詞のようでした。その経緯(いきさつ)にどのようなことがあったのかはわかりませんが、手の震えに始まり、ツネはノーテンキなんだよ、そのキャラクターの特異さが結びつき、ツネの名がトリッキーな芸人のように、遠慮会釈なく子供たちの口の端に上るのでした。
 隣村ですから、中には彼に近しく見(まみ)えた子供もいたのでしょう――中風病みと思しき手の震えなどは子供の目には強い印象を与えますから、子供特有のデフォルマシオンで極端に歪曲化し、面白おかしく伝えられたのだと思われます。なぜなら、大人になればそのような振る舞いはしないし、殊更にシバサキとツネを結び付けたりもしませんし。
 さて、私に限って言えば、彼は奇矯な性格の、多分にエキセントリックな少年として記憶されていました。なぜかはわかりません。後々、ツネを親しく知るツネと同郷の方から、その当時のツネの風姿を聞いたことがあります。彼は手の震えを持つ中風病みであったことは間違いありませんが、多少、頭の方が足りない初老の男であったと知りました。そのコメントに、私は少なからず戸惑いを覚えたものです。ああ、そうでしたか。
 色々と興を持ち、更に同郷のご仁に聞くと、彼は温和なたちの、村人に愛された人となりの持ち主であることもわかりました。同郷の方は自分の幼い妹が「ツネ」の膝に乗せられては度々、あやされてたことなどを懐かしく話されました。ツネは頭の足りない中風病みの初老の男で、しかも生涯独身を通し、というよりそうせざるを得なかったのでしょうが、今は静かに故郷の墓地に眠っているとのこと。ああ、そうでしたか。
 とまれ、私と知人とは、その節が初会であったはずですが、ツネの記憶を通してひとしきり会話が盛り上がり、一気に親和的になったことを覚えています。
――機会があれば、彼の菩提に線香の一本も。
――ああ、いいですね。

「私のオンツァ」のこと

 ところで、ツネのような存在はどんなコミュニティー、在所にも一人やふたりはいたものです。私の身辺にもそんな人がおりました。それは「サーカス、並びにその周辺のこと」の中で「コリオリの力」を身を以って実演してくれたオンツァ、その人がそうでした。
 オンツァの思い出を語ります。
 わが「オンツァ」もオンツァと呼ばれるように大きな農家の庶子であり、その上、軽微な知的障害もあり、そんなわけからか、とうに三十路を越していても独身者で、それゆえ分家独立もならず、総領の元でもっぱら農事に従事していました。こういう、分家も能わなかった農家の庶子たちのアワレ、主にはその性的不如意を書いた「可笑しくも悲しい」名作に、深沢七郎の「東北の神武たち」があります。神武はズンムと発声し、オンツァのことです。
 ともかく、そんなズンムの一人である私の村の「オンツァ」は性的な不如意はともかく、小銭などにも不自由を託ったことでしょう。お手当などはいわゆる部屋住みの身のオンツァなどにあるわけがありませんし、それでなくても文字通りの穀潰し(!)なのですから。
 ですから、彼は時には集落の便利屋めいたことをして、多少のお小遣いを稼ぎました。思うに、彼に何より欠如していたのは知能などより悪意でしたから、村人たちも何かと重宝がったのです。しかし、やはり怠け者で、家人が目を離すと、すぐにと子供たちのところに来ては、私たちと遊びをともにするのでした。
 その癖、農事の暇なときには近在の町場に出向き、彼はパチンコに興じます。それが彼の唯一の楽しみのようでもありました。近在といってもパチンコ屋のある町場までは私の村から三里ほどあり、その12キロを、彼はバス代を惜しんで歩いて行くのです。その成績はかなりなもので、必ずやまとまった数の煙草を稼いでくるのでした。むしろ、彼のパチンコ屋通いはその煙草を求めてなされているようでした――オンツァ、パチンコか。煙草が切れたか。
 早い朝、村の県道(バス通り)ではなく、裏道の村道を徒歩で町場に向かうオンツァに声をかける村人の声を、私は何度か聞いたことがあります。同様に、パチンコを道楽とする村人の話によれば「オンツァには負けるよ」という事でした。オンツァのパチンコのやり方は玉の一個一個を抓んでは、その一個一個を恐ろしく丁寧に打つのだそうです。そして、いつしかは最初の百円で借りた(パチンコの玉は買うのではなく、借り賃をお店に払ってのレンタルですよ)球数を数倍の出玉にして、ある目安の嵩になれば、未練なく煙草に換えては村へと帰ります。まどろっこしいようですが、その毎度毎度の手堅さにはくだんの村人は舌をまいたそうです。オンツァにとってパチンコは実益をかねた趣味、いや、彼には趣味などという若気(にやけ)た意識などなかったかもしれません。

 オンツァは既に書きましたが、農閑期などで暇を持て余すと集落の子供たちのところにちょくちょく顔を覗かせました。村の大人たちは誰もが付帯条件を付けて彼に対しますが、子どもたちはどんなわだかまりもなく自然に、いや、むしろある種の敬意を持って彼を遇したと思います。ただ、その敬意にはどこかアイロニカルな匂いがしたとしてもです。私はといえば彼には一種の天才、異能を感じていたように思います。
 春、小鮒釣りし頃になれば、オンツァは私の名をまるで友達のように呼び捨てに呼び、私かに教えてくれる湖沼のポイントはことごとくヒットしましたし、秋ともなれば、軒端に干してある落花生を、煎りもしないで食べては子供の私を吃驚りさせたりもしました。
 オンツァ、食べられるの? 
 生で食えない畠のものはないんだよ。
 この真実! そうして、オンツァは唐黍や甘藷なども彼一流の戯れからか、私の目の前で生のままに齧ります。愚者に千慮の一得あり? とんでもない、彼がグシャなどであろうはずがありません。



   ******続きは、10月30日の予定です******

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