写真 佐藤有(たもつ)

1937年生まれ
20歳の頃から身近な自然や子供たちを撮り続ける。
現在、茨城県龍ヶ崎市にて写真館を経営。


なつかしの昭和の
     子どもたち
国書刊行会

 

文 田中秋男

1948年生まれ
CMプランナーとして約35年ほど糊口を凌ぐ。
50代半ば心臓に病を得、
職を辞して文筆業に励む。


筑波の牛蒡 敬文舎 

 

 

(Ⅱ)

 彼女は学校から帰ると裸足になった。黒姉えの放課後はそうして始まる。裸足となって、家の門口に立つ山毛欅の古木の、池を背にして庭前に伸びた側、ちょうどYの字に枝分かれした処に腰掛けるだろう。そこがどうにもお気に入りの彼女の「午後の場所」なのだった。やがては幼い者たちもひとり二人とその界隈に遣って来る。遣って来ては幼い者同士の遊びとも呼べないじゃれ合いのひとつや二つもあって、そうこうするうちに、しかるべきお兄さんやお姉さんたちが顔を覗かせる。となると、その頃合いを見計らって、彼女は彼女の場所から天降り、自ずと彼女主宰の本日の遊びが始まるという段取りだ。
 さて、黒姉えの家に通じる露地はその長さもさることながら、上述した周辺の立地条件が、溜め池での水辺の遊びなどはいわでものこと、この界隈を私たちの恰好の遊び場としていた。尚、書き忘れたが、露地の真中には露地を縦に二分する丈の低い立ち木が点綴し、そのことはこの長尺の空間に好ましい変化を齎し、私たちの遊びの世界に妙味を添えた。ここで立ち木の品種を問うなら、あれは柾(まさき)ではあったか。
 稀には娼家を兼ねたかもしれないお茶屋の板塀は、いつだって心妖しく子供たちの絵心を刺激した。その黒無地のキャンバスには、私たちの自由奔放な創造力が遺憾なく発揮された。その絵柄は中々のアブストラクトな精神に貫かれていて、プリミティブといっても差し支えないが、奇妙奇天烈な具体性を保ち、一貫してそこにあったのは性に対する旺盛な批評精神、愉快なドローイングではあった。
 一方、元は地主の手入れの行き届いた立派な生垣では、槇の実がぽってりとした緑の花托の上で朱く熟せば、私たちは頃合いを見計らって気ままに抓んで口にもしたし、露地の柾にあっては、それらの四季折々の植物学的変化を、私たちは身を以って楽しんだ。春、銅(あかがね)色に萌え出たばかりの嫩葉などは根本からそっくり毟り取り、投げ矢(ダーツ)の要領で飛ばしっこをしたり、白い蕾らしきものが木々を飾れば、それらは幼き者の嗜虐心を煽るのか、私たちは意味もなく採り散らかしては落花狼藉の限りを尽くす。秋、小枝の先に密生する小粒な青い実だって、熟してほのかな葡萄色になるまでなど、とても待てない。滅多矢鱈に掌で扱き採ってしまう。いづれ、それらは女の子や小動物への恰好の礫となるのだ。一方、女の子たちだって時が熟せば、そんな実で紫の色水を作ったりもした。
 そして、茶屋の背後の庭では狭隘とはいえ、広場ならではの遊びが繰り広げられたことはいうまでもない。亦、露地の長さはその長さが必須の条件の遊びに利用された。その代表的な例をそれぞれ挙げれば、広場では「エスケン」だろう。あるいは「エス陣」といったかもしれない。露地では「トッカン」だ。更に、この露地裏をベースにして、村のあちらこちらへと繰り出す「ドコユキ」なる遊びなどもあり、それは私が取りわけ好んだ遊びのひとつでもあった。
 さて、私は黒姉えとの思い出に先がけて、許されるならば、許されよ、それらの遊びの概要について、ここで若干のお浚いをしておきたい。なぜって、黒姉えは常に私たちの遊びの世界に君臨していたのだし、私たち幼きものは彼女の導きによって、それらの遊びを嚆矢として、数々の露地裏の遊びを彼女に学んだともいえるのだから。
 では、「エスケン」について説明してみよう。
 ある年代以上の方々には既にお解りのことだろうが、まずは地上に大きくSの字を描く。このS字の文なす上下の空間が敵味方に振り分けられ、それぞれがそれぞれの陣地となる。その陣地内の奥深いひと隅に宝物の小石が置かれ(宝物と称したとて見た目などの希少性は問わない、幾分大きめでありさえすれば任意のそれでよい)、その小石の争奪戦がこの遊びの要諦で、奪った小石を自陣の宝物と合体できれば即ち、勝利。そこで、勝敗を決するために敵の至宝を奪わなければならない。要は互いに敵陣を襲わねばならないわけだが、S字の外部では私たちはケンケンでしか移動できないという条件が付く。襲撃の途中で敵と遭遇すれば、死命を決すべくケンケンしながらの取っ組み合いとなり、地に足を着いた者は即座に頓死、だ。
 尚、S字の上下には小円が描かれていて、そこでは敵味方分け隔てなく両足が着ける。つまり、休戦地帯となっていて、私たちはしばしば片足跳びの疲れを癒す。そこに留まる間は気が抜ける。呉越同舟、互いに一服できた。実際、ケンケンは幼ければ幼いほど体力的にきついもので、片足跳びでの移動などはそうは長く続きやしないのだったから、私などはその小円がなければこのゲームにあってはとんだ足手まとい、無用の者ではあったろう。だから、まずはその小円を目指して自陣を出る。そこまでもが私たち幼い者にとっては中々の冒険なのだった。道中、勝ち目のない敵に襲われれば一目散に円い「塁」を目指して駆け込む、片足がその地にあれば、線上にあってさえ、セーフ! 心底、ほっとする。やれやれというわけだ。
 塁とは語義的には砦のことだが、ここではあのベース・ボールのベースを思い浮かべて欲しい。当時はこの球技を知り染めた頃とも思われるが、私たちが夢中になるには今しばらくの猶予があった。只、後年のその手の思い出とリンクさせてみると、ゲームの中でのこの小円の持つ意味合いがよく理解された。確かにあの外来の集団球技に於いても(エスケンだって外来の遊びであったかも知れない、私はそう踏んでいる)、私たちがその塁上にありさえすれば、しかもその身の一部がベースとやらに触れて居さえすれば、私たちの安全は保証されたはず。でしょう? しかもですよ、こちらでの話だが、実はその小円を離脱する、まさにその瞬間が最も危険な時間でもあったのだ。このことはかの球技にもいえたことではあって、あちらではどうも「刺殺」の危険が待ち受けているらしいが、ではこちらはどんな案配なのか。
 察しのよい方はもう、お解りだろう。ケンケンの最初の一歩、その時を狙っての背後からの一押しで、こんな屈強なと思えるような兵(つわもの)までもがたわいもなくよろめき、あっさりとそのおみ足を地上に着いてしまう。だから、間さえよければしてやったり、幼い者でも大いに手柄を立てることもできたという次第。さあ、私たちはここから何を学ぶだろう。楽あれば苦あり、地獄極楽、紙一重。あるいは機を見るに敏であれ、それとも油断大敵? いやいや、弱者でも強者に勝てる。つまりはこうであろうか、誰にあっても人を奈落に落とすチャンスはある!
 悪い冗談はさて措き(悪い冗談だったろうか)、S字内は無論、両足歩行の許された地帯だが、必ずやそこには自陣を護る兵が必ずやいるわけなのだから、敵陣に侵入した者は宝を護る者たちと対峙することになる。さて、そんな場合はどうなるか。S字内が土俵となり、すぐさまの取っ組み合い、力相撲だ。つまり、この取っ組み合いの有効な決まり手はS字外への突き出しのみ。どんなに這いつくばろうとS字内に留まる限り勝負は決しないが、突き出されたものは即ち、戦死。
 とにもかくにも、両陣営は敵の宝物を奪うべく知恵を絞り、仲間と協力しては陽動し、相手の裏を掻き、こんな場合は非力な幼児が活躍、時には年嵩の者よる蛮勇的な力技にも期待する――双方が持てる力をフルに活用し、両軍は死闘を演じるわけだが、こんな説明で果してお解り戴けたものだろうか。
 一方、露地の長さをフルに活用した遊びの代表的な例として、私は「トッカン」を挙げたと思う。次いで説明してみる。
 トッカンは「吶喊」、即ち鬨の声のことであって、決して「突貫」ではないと思われる。そのことについては後で少しく触れられるだろう。今は遊びの要諦だ。簡略にいえば、エスケンの露地バージョンと説明できるかもしれない。露地の両端に陣営は構築される。といったって、その両端にある立ち木を指名して、その喬木を中心に小円が描かれるだけだ。その立ち木が敵の手にバンザーイの雄叫びとともにタッチされれば敗北。だから、私たちはこのいわば私たちの「神木」を護るべく、そして相手の神木を攻略すべく、二手に分かれた子供たちがその長尺の空間を走り回ることになるのだ。勿論、ケンケンであろうはずがない。そこでは、私たちは籠から放たれた小さな飛鳥のようなものだ。双方の子供たちが高く澄んだ声を張り上げ、トッカーン! トッカーン! 互いに入り乱れて走り回っている、暮色の中の「露地裏の光景」は悪くない。悪くないどころかーー狭い露地には、人を幸せにするだけの空があるだろう!

 それでは、私たちが敵と合いまみえた場合はどうなるのだろう。どのようにしてその勝ち負けが決着されるのか。何も取っ組み合いを演じるというわけではない。ここでは時間差がその優劣を決める。相手より「遅れて」陣地を出た者にアドバンテージがあり、敵の躰にタッチを図る。すると、劣位のものはここでは死者とするのではなく捕虜となるのだ。だから、この遊びではその時間差の見極めが互いに肝要となり、あくまでもその上での駆けっこによる丁丁発止なのだ。立ち木の間を蛇行したり、木々を盾に敵の優位の者から身を躱し、タッチを機敏に遣り過しては劣位のものを素早く捜し、一挙に襲い、退き、あるいは囮となって敵を自陣に惹き着けては仲間と謀って挟撃したり、ここでも英雄的な個人プレーに頼るだけではなく、機転の利いたチーム・プレーが有効なのだ。単純な遊びに見えて、どうしてどうしてその興趣は尽きないのだった。
 では、それらの時間の差異(ズレ)は誰がジャッジしているのか? 
 それがよくしたもので、当事者同士、これが阿吽の呼吸で判定されていたのは興味深いことではあった。実際、どちらが後先きに陣地を出たものか、そんなトラブルは皆無とはいえないまでもほとんど起こらなかった。起こりようがなかったといえるのかもしれない。その理由は明快な捕虜救済システムにあったとすることもできるし、私見に拠ればこの捕虜の境遇に陥ってみることも、遊戯者たちの「それも又、一興」ではあったのだ。だから、そんな言い争いになった時、どちらかが必ず、まあ、いいか、の気分になるのに違いがなかった。
 では、その捕虜の救済について説明してみよう。
 捕虜となった者は速やかに敵陣に降り、味方の救済を待つ。敵陣の最先端に立ち、手を水平に差し伸べておく。敵を遣り過した味方の者がその手にタッチでき得れば、囚われの身からの解放となる。その際の嬉しさといったらなかった。心待ちに待った「助かった」という気分の良さとプレーに再帰できる喜び。捕虜の数が増えれば増えるほど、その救済のチャンスも益々増える。なぜかと言えば、虜囚の身の上の者たちが手を繋ぎ、その人間の鎖は一段と戦闘エリアに伸びるのだったから。味方の誰かがその鎖の最先端の手に触れさえすれば一挙に全員の解放だ。その痛快さ、カタルシス。だから、そんな際には全員が喚声を挙げて一斉に自陣に駆け込むことになる。
 思えば、この遊びは戦争の「模擬(ごっこ)」、R・カイヨワの遊びの分類概念に言うところのミミクリ(アリストテレスの「詩学」を持ち出せばミーメーシス、描写のことだ)と思われるが、実はその姿を借りた死と再生の遊戯だったかもしれない。その証拠に、私たちは戦闘エリアに永く留まることは不可能だ。そこに留まる限り、私たちの「戦闘(=生存)」能力は漸次低下し、最終的にはその場の最も無力な者に成り果てるだろう。だから、私たちはしばしば自陣に戻りリフレッシュを図る。文字通りの体力の回復と戦闘能力の復活。戦闘エリアへの最新の登場者を以って最強とする、この端倪すべからざるルール! 
 実際、エスケンに比べて、こちらの方は勝負の行方よりはできるだけ多くの者を捕虜にしたり、捕虜にされたり、一挙に解放したりされたり、どうも私たちはそのような感激に――カイヨワの分類に従ってイリンクス、即ち「眩暈」の範疇に入るといえば言えなくもないが、とにもかくにもそのような感興をもってこの遊びの面白さとしたのではないか。だから再度、ここで言痛く確認を図れば、この遊戯の本来は死と再生のダイナミズム、そこにこそあったのだ。かつての遊戯者であった私にはどうにもそのように思われて仕方がない。
 この遊びは二手に分かれた両陣営のトッカーン! の掛け声と共に開始され、子供たちが自陣から繰り出す度に終始トッカーンが叫ばれる。その故は申すまでもなく、己が出陣の瞬間を敵味方に告知していたというわけだ。時間差そのことをもって、この戦場での彼我の優劣が決定するとは既に陳べたこと、互いに敵陣への懲りない「突貫」を繰り返す遊びではあったが、私がこの「トッカン」のネーミングに「吶喊」の方を採用する所以だ。
 後年、私は、河合隼雄の「未来への記憶―自伝の試みー」(岩波新書・上)の開巻早々に、氏の幼少時の最初の記憶として、彼の弟が棒切れを持って「トッカ―ン、トッカ―ン」と叫んでいる光景を挙げているのを知った。その説明に「トッカ―ン」とは「兵隊ごっこの突撃の喊声」とある。
                 (「後年、〜とある。 」 2020/5/12 追加)
 以上を以って、私はここでの「吶喊」の説明を了とする。
 そこで「ドコユキ」である。ドコユキは「どこ往き?」である。
 まずは地面に然るべき大きさの円を描き、円は中心から円周へと放射状に細分化され、つまりはダーツ盤の要領だ、その一々の所に私たちへの用件が書かれる。いわば運動会の借り物競走の伝で、何をなすべきかが指定される。私はこの遊びがことの他、好きだった、そのことは語った。
 では、どこへ行き、その人のなすべきことは何か。それは実にたわいないことではあった。誰それさん家に行って井戸の水を口に含んだまま戻って来る。近場の三叉路で、誰彼かまわず大人の人、三人ばかりに、コンニチワ、コンニチワ、コンニチワ、挨拶をする。露地からはやや遠めに位置するバス停の傍らにある郵便ポストや、村はずれの寺の参道に立つチューコヒン(忠魂碑)の碑(いしぶみ)にタッチして来る。実はこれらのメニューが幼き者には最も不人気。なぜならそこにはなんの芸もなく、しかも子供の脚には遠すぎた。中には間抜けなほどの至近の行き先もあって、そんな項目に当りでもすれば勝ったも同然、ラッキー! とあいなる。はたまた、どこそこの生垣から、あるいは特定の樹木から葉っぱを指定の枚数だけ捥ぐ。あるいはこの円盤を百遍廻るなんてのもあったような気がする。そして、抜かりなく「今回はお休み」などもあって、参加者の思いのつくままにその項目は多彩だ。
 では、どのようにして各自の用件が決定されるのか。
 私たちがケッタシ(蹴り石の転訛か)と呼ぶ石蹴り用の平たい石を、然るべき距離を取った位置から、円盤に向って地面を滑らすように投げ込む。無論、投げた石の留まった所のメッセージが私たちの境遇だ。参加者のすべての条件が決定してしまえば、後はヨーイドンの競走が待っているだけ。定められた場所に向かって、然るべき何かをなして、そしてひとつでも上位者となるべく、私たちは逸早くこの場への帰還を目指すのだ。
 そして、言うにも及ばないことだが不正(ズル)は誰よりも自分自身によって許されなかった。というより、誰が己が運命(さだめ)を騙し得るなどと、そんなことはね、端から考えられもしなかったし、参加者全員に於いて厳密に守られたはず。それでなかったらこんな遊びのそもそもが成り立たない。
 私たちはその一連のなりゆきに一喜一憂し、その運不運を託ちながらも、この遊びにどんなに身を惜しまずに勤しんだことか。そして今度こそ、どんな境遇が我が身に用意されているのか、この遊びは私たちの射倖心を擽り、なん度でも繰り返し遊ばれた。思えば中々によく出来た遊戯だった。再び、R・カイヨワの遊びの分類に従って言えば、「競争(アゴン)」と「運(アレア)」のこれほど見事に融合した遊びもあるまい。そして時に、私は今現在どんなドコユキのさ中にあるのだろうなどと思わないこともないのだ。それとも、もう、とっくの昔にそんなゲームは終っていて、私ひとりがその帰り道を見失い、終にはかつての仲間のところに戻れないでいる、そんな由なき事さえ思い抱くことがある。

 話を進めよう。                         
                                   (2019/12/10)


        ****** 次回に続く ******

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