写真 佐藤有(たもつ)

1937年生まれ
20歳の頃から身近な自然や子供たちを撮り続ける。
現在、茨城県龍ヶ崎市にて写真館を経営。


なつかしの昭和の
     子どもたち
国書刊行会

 

文 田中秋男

1948年生まれ
CMプランナーとして約35年ほど糊口を凌ぐ。
50代半ば心臓に病を得、
職を辞して文筆業に励む。


筑波の牛蒡 敬文舎 

 

 

   模型ヒコー機の庭でⅠ

 黄金色の稲穂が刈り取られると、刈り取られた稲田には赤い蜻蛉が空を朱く染めるほどに飛びました。やがて、その上の高い空には私たちの模型ヒコー機が飛び出すはずです。
 決ってこの季節でした。毎年、この頃になると、村の万屋の軒先には縦に長い細身の紙袋がぶら下がります。中身は模型ヒコー機の素材。村の子供たちが挙って買い需めるわけではありませんが、ある種の少年たちはこの商品の到来を待ち佗びています。といったって、ひと昔もふた昔も前の話です、買い惑うほどに品揃えが豊富だったわけではありません。精々が数種類、それでも年ごとの人気機種や新作モデルにはこと欠きませんでした。
 年々、それらはプラスチック製のパーツを組み込んで、工作がより簡便に、そして何よりなことには性能も優れていき、その飛行距離は段違いによくなりました。要するに工作の完成度に個人差が出ず、平均化していったのです。それはそれで大変結構なことでした。
 一方、それでも尚、私たちは大型で工作のより難度の高い機種に憧れを抱き続けたと思います。実際に自分が作るともなれば、容易に安易な傾向に流されがちでしたがーーその証左に、「オリンピック」という古典的名機があったと記憶していますが、当時、私のお気に入りのブランドはより簡便な方の「セドリック」でした。
 とまれ、それにしても、なぜこの季節だったのでしょう。今にして思えば、この商品戦略は中々に正しい。なぜなら、田舎というものは子供たちにとってそこら中が原っぱだと思われがちですが、実はそうではありません。私たちの村は大きな河流の河沿いに拓けた稲作地帯でしたから、ほとんどのフィールドが水田です。となればそこは耕作地、子供無用の地です。ましてや、空を相手の遊びともなれば私たちがよく集い、三角ベースなどを愉しんだご近所の富農の庭などはお話にもならなくて、放課後の小学校の校庭であってさえもどこか心もとないのでした。いわんや、失敗の許されない河原などもっての外です。
 ならば秋、稲の刈り取りが済んだ田圃こそ、模型ヒコー機にとっては恰好の場所となるのです。地は乾き、見渡す限りの大空の下、そのままが私たちに開放されます。

  [私たちの自由時間]

 秋高く、模型ヒコー機は参加者のお兄ちゃんの数だけ舞いました。そんな中でも、私の親しくした近所のお兄ちゃんのヒコー機は他のどんなそれよりも、高く、遠く、飛びました。
 ところが、なぜか、私のアイドルであったお兄ちゃんは自分の作ったヒコー機を自分で飛ばしたりはしませんでした。最初の一、二度を自ら飛ばした切り、後は誰にだって望む者に預けました(たぶんにお兄ちゃんは飛ばす事よりも作ることに楽しみを見出す、そんなタイプの少年でしたでしょうか、今ともなればそのようなことに思いも至ります)。ですから、弟分たちは挙ってこの機会に便乗しました。私は中でも最年少の部類でしたが、曲がりなりにもこのヒコー機の関係者であるのだからと、ただ単にお兄ちゃんの傍に侍り、その完成までを傍観したにすぎませんでしたが、この機に対するプライオリティを暗に主張したりして、その仲間に加わりました。
 私のお兄ちゃんの作ったヒコー機の飛行能力には幼い子供たちは息を呑み、オンツァは目を丸くしました。私たちのオンツァは抜かりなく、ちゃんとこのような場にはいたのです。彼はこういう類いのアトラクションは決して見逃しませんから。
 かくして、私たち年少組とオンツァは揺々舞い下りて来るお兄ちゃんのヒコー機には、なにはさておき駈け付けるのでした。他の兄ちゃんたちも、お兄ちゃんの飛行機には一目置いているようでした。時に、幼い者の手から強引に拝借して、手ずから飛ばしたりもしました。お兄ちゃんたちでさえ、私のお兄ちゃんの機を飛ばしてみたくてならないのだと思うと、私はなんだか可笑しいような誇らしいような気がしました。としても、しかし、そのような横槍が度々あってはいけません。そこで、いつしか、その優先権は最初に機を手にした者にあるという暗黙の了解事項、ルールが出来たと思います。
 私たちは稲刈りの済んだ稲田の中を縦横無尽に駈け回りました。すると、私たちの足元からは晩節の飴色をした蝗が飛沫のように飛び散りました。低い空では赤い蜻蛉が烙のように湧き上がり、逃げ惑いました。
 今や子供たちの広場と化した刈田には、稲を干す為の稲架(はざー我が地方ではオダと言いました)があちらこちらに架設され、水平に渡した棹には隙間なく稲束が干されていました。黄金色の稲穂は秋のまっ更な陽射しの中で乾き、その色合いを鬱金へと変えています。しばしば、着陸態勢に入った模型ヒコー機がそんな稲の緞帳にぶち当りました。そのつど、遠目にも赤いものが赤い綿埃のように舞い上がり、すぐさま収まります。駈け寄ると、オダの稲束に引っ掛かったヒコー機にさえ、すでに赤いものは羽根を休めていたりします。田圃の中を駈け回る疲れを知らない子供たちは、刈り取られた稲の切り株に足を取られ、転(まろ)びます。すると、やはり子供たちの身辺からは一斉に飴色のものが跳ね上がり、どうした加減からか、起き上がるとズボンの中でさえ、二、三、モゾモゾしている始末なのでした。
 オンツァはそんな子供たちを見逃しません。指さし、雀躍し欣喜(よろ)こびました。そして、自らも態なく転びます。それを見て、子供たちも笑い興じました。なんて愉快な仲間たちでしょう、たとえ多少のいざこざや、そこかしこでひとつや二つの小突き合いが演じられたにしろ!
 私は、私たちは飽かず歓声を挙げ、競い、転(まろ)び、揶揄し、揶揄され、息も切らさず、時には息も絶え絶えに、でも、直ぐにと息は吹き返しました、決して飽きることなく田圃の中を駈けずり回るのです。幾たび、そのようなことを繰り返したことでしょうか、愉しくて、愉しくて、この愉悦には埒がないように思われました。
 ここにこそ、私たちの「自由時間」がありました――私への自由、私からの自由! 

 私たちは首輪を外した、もう、子犬のようなものでした。


       ****** 次回へ続く ******

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T-MONO(ティーモノ)さんのブログより


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「オリンピック」







































































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