写真 佐藤有(たもつ)

1937年生まれ
20歳の頃から身近な自然や子供たちを撮り続ける。
現在、茨城県龍ヶ崎市にて写真館を経営。


なつかしの昭和の
     子どもたち
国書刊行会

 

文 田中秋男

1948年生まれ
CMプランナーとして約35年ほど糊口を凌ぐ。
50代半ば心臓に病を得、
職を辞して文筆業に励む。


筑波の牛蒡 敬文舎 

 

 

 模型ヒコー機の庭でⅢ-a

 私たちの模型ヒコー機は空にありました、同時に二機、三機と、そして次々と。空は充分に広かったのです。

〔ゲーム〕

 確かに、空は充分に広かったのです。
 そんなわけからでしょうか、年少者の誰某かの思いつきで、みんなのヒコー機を一斉に飛ばしてみよう、そんな催しが提案されました。各自の機の飛翔力を競ってみようというわけです。それは面白い、私たちの空に最後まで残るヒコー機は果たしてどの機なのでしょうか、お兄ちゃんたちも良しとしました。早速、お兄ちゃんたちは慎重の上にも慎重を期し、自前の機の翼などを調整、今までの飛行で納得出来かねる箇所は抜かりなく整備され、ゴムもこの度は一層念入りに巻かれました。
 突然の、この真剣さはなんだろう、幼い私には胸苦しいほどでした。
私のお兄ちゃんも、機を担当する者に(決して私ではありませんでした)、二、三のアドバイスを与え、翼の反り具合などを若干修正させたりもしました。それが済むと、お兄ちゃんはさっさとその日の自分の場所、塚の中腹へと引き下がってしまいました。オンツァはといえば神妙な面持ちで、なんとまあお兄ちゃんと立ち並び、何やら対等に? 言葉を交しながら煙草を吹かしていました。ああ、オンツァは大人なんだ! 私は今更ながらにそんなことを思い、擽ったい気持ちになりましたーー太陽光をやや逆光に浴びた二人の姿は私の目には一幅の絵のようです、どこかユーモラスな矮小短躯の太っちょ中年男といささか怒り肩の、痩身の美少年。
 そうこうしているうちに、私たちのヒコー機に、その時は来ました。
 せいの! で同方向に一斉に解き放たれた模型ヒコー機群は、咲笑うように空へと広がりました。その一瞬の美しさには胸がときめきました。でも、広い空に、もう、機はてんでに舞い始めていて、私たちの関心は誰の機がどこまで遠く、どこまで高く、そしていつまで飛翔を続けられるのかのゲーム的興味に取って代わられました。とはいえ、それが最初からの狙いであってみれば別段、怪しむに足りないことでした。
 それぞれがそれぞれ思いの丈を賭け、それぞれのお兄ちゃんの機を応援しました。果して、私のお兄ちゃんの機は誰が担当したのだったでしょうか。年少者の中でも最年長者に預けられたと思われますが、このケースでは不調でした。二、三番手の慌しさで、舞い降りてしまいました。
 なあんだ、つまらない。お兄ちゃんが飛ばせばよかったのに、あくまでもいじいじ思う私なのでした。
お兄ちゃんの方を窺えば、もう、そこにはオンツァはいなくて、彼は既に田圃の中で天上の一機一機を指さし、奇声を挙げては誰よりも興奮していました。かたやお兄ちゃんといえばこんな際にも他人事のように(でも、つまらなそうにしていたわけではありません、お兄ちゃんは決してシニックを旨とする人ではないのです)、私たちのヒコー機レースをもの静かに愉しんでいました。片手をズボンのポケットに突っ込んだくらいにして、今にして思えば聳やかした肩に微かに無頼の影すら忍ばせて。相変わらぬ奴だな、お兄ちゃんたちが苦笑交じりにお兄ちゃんを評する常套句を採用すれば、そんな気分だったでしょうか。
 全員参加の、そんな遊びの中の遊びもニ、三度繰り返されただけで、後はひとり抜け二人抜けしていきました。ちなみに、全員参加のこのレースではお兄ちゃんの機は全く振いませんでした。その都度、私は惝怳(しょうきょう)を新たにし、相変わらずひとりぼやいているのでした、お兄ちゃんが飛ばせばいいのに。
 しかし、まだまだフィールドでは、そんな私などにはてんからおかまいなしに、さしで勝負! なんてお声掛かりで、一対一の勝負は自在に愉しまれていました。私はその勝負を眺めているだけでも、それはそれでワクワクしました。お兄ちゃんたちだけに限って行われるそんな勝負事がとても羨ましく思いました。つべこべ言わずにサシデショウブ! 何がサシなのか不明ではありましたが、一対一の真剣勝負というよりは命ガケほどに、当時の私は理解していた節があります。子供心にもその台詞は男らしく、何やら潔く、しばらくはこれが私の口癖となりました。
 そのような私の勝負事の思い出については、別に、この稿で語る機会があるかも知れません。そのことはまたのお楽しみにということで、私はこちらの「模型ヒコー機の思い出」を続けます。
 中でも、この日のクライマックスのひとつでもあった、私の「初飛行」について、半人前扱いのお味噌であった私にもお兄ちゃんの機を飛ばせる機会が舞い降りたのでした、そのことを語ります。

〔永遠の今〕

 あゝいゝな せいせいするな
 風が吹くし
 農具はぴかぴか光ってゐるし

 東北の禁欲の詩人はその「雲の信号」をそのように歌い始めています。
 ああ、ここに宮沢賢治の詩句を借りれば、私たちのフィールドでは何もかもがぴかぴか光っているようでした。見仰ぐれば、今日の日の「空のありどころ」(蕪村)を示すお兄ちゃんたちのヒコー機は天の奥深く、それこそ光の粒子で作られたものの如くに輝いているし、吹き来る風でさえそのようでありました。
 あゝいゝな、せいせいするな。私たちのフィールドのすべては、

 山は ぼんやり
 岩頸(がんけい)だって岩鐘(がんしょう)だって
 みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ

 そうか、そうかと私は気付くのです。私たちはみんな、賢治のいう「時間のないころ」の夢を見ていたのです。換言すれば「永遠の今」に遊んでいたのだとも。
 永遠の今! 
 そうなのです。十三世紀はドイツの魂の師、マイスター・エックハルトなら、その説教集のどこかで「永遠の原初なる単一の今」について明解に語ることでしょう。「わたしがこの今をつかむならば、そのとき、この今は自らの内に一切の時間をつかんでいるのである」。きっと、私たちの遊んだ今も、「恩寵の今」とも「神話的な今」ともいえるそんな今ではあったでしょうか。ここには以前も以後もなく、一切が現在の裡にあるのです、なぜなら「永遠の内には昨日も明日もないからである。そこには現なる今があるだけである」から。更に師は永遠は常に新しいと語ってくれているに違いありません。「常に新たであるのではないとしたならば、永遠は永遠なるものではないことになるであろう」。つまり、そう、私たちの永遠はいつだって<ぴかぴか>なのでしたーー(以上「」内は「エックハルト説教集」田島照久編訳・岩波文庫より)。

 私は身震いする思いでした。
 身震いしました、お兄ちゃんのヒコー機を手にしたのです。私に、晴れてお兄ちゃんの機を飛ばす時が来たのでした。(Ⅲ-bへつづく)


        ****** 次回へ続く  ******

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