写真 佐藤有(たもつ)

1937年生まれ
20歳の頃から身近な自然や子供たちを撮り続ける。
現在、茨城県龍ヶ崎市にて写真館を経営。


なつかしの昭和の
     子どもたち
国書刊行会

 

文 田中秋男

1948年生まれ
CMプランナーとして約35年ほど糊口を凌ぐ。
50代半ば心臓に病を得、
職を辞して文筆業に励む。


筑波の牛蒡 敬文舎 

 

 

模型ヒコー機の庭でⅢ-b

〔お味噌の存在学〕

 どんな僥倖が私に舞い降りたというのでしょうか。
 お兄ちゃんのヒコー機を求めて、枯れ田を無我夢中に駆けずり回っていた私はいつしか、お兄ちゃんの機を手にしていたのでした。そこにはどんなマジックがあったのでしょう、私には獲得の前後の記憶がないのです。とんでもない僥倖に襲われた時、人は頭が真白くなった、記憶が飛んだなどとよくいうものですが、そんな事態が私にもあったのでしょうか。
 とまれ、私はヒコー機をしっかりと保持し、塚に駈け戻りました。ああ、私こそが舞い上がる思いでした。だって、本格的な模型ヒコー機を手ずから飛ばすなんて、私はこれが初めてなのでしたし、お兄ちゃんのところで親しく目にもし、手にはしていたけれど、その時でさえ、心穏やかではなかったのだから、たった今、そのような事態が出来(しゅったい)したともなれば、私の気持ちも分ろうものではないでしょうか。あまつさえ、のっけから大型機ときています。通常機種でさえ、私くらいの年蒿では、さて、一人で飛ばすともなれば何かと覚束ないのでした。
 案の定、今回だって暗黙の約束(ルール)があったのにも拘わらず、実際、そのようなことになってもみれば、ああでもない、こうでもない、諌める者まで出てくる始末です。君の心意気は買う、しかし、まだ無理かもしれない、彼らは機の損傷を何より危惧しているのです。年長者は概して言葉巧みに、年少者の中にはなぜか激して、恫喝めいた言辞を弄す者さえいました、どうなったって知らないから。そうだ、そうだ、ソンタラコトにでもなったら、ベンショウ、弁償! 幼き子らは何かといえばベンショウ、それが口癖なのです。
 しかし、私は頑なでした。約束を盾に首を縦に振りません。一人で飛ばすと、私は言い張っているのです、誰の助けもいらない。だって、助けといったって、飛ばす手順のほとんどを年長者がしてしまい、幼き者はただ手を拱いて見ているだけなのですから。しかも、いざ飛ばす段ともなれば、そのお兄ちゃんは小さな者に覆い被さり、掲げたヒコー機は自ら確保してしまい、一方、幼き者は漫然と機体に手を添えているだけだなんて、私は真っ平! 
 そんな私に皆は呆れ、ほとほと手を焼くと、私のお兄ちゃんを窺い、注意を促します。ところがどっこい、私のお兄ちゃんは元来、そんなことは気にも止めない質、お門違いも甚だしいのでした。お兄ちゃん以外のお兄ちゃんたちは遺憾としましたが、わがお兄ちゃんはそれで宜しいとしているわけです。私の心はとっくに決っていましたが、改めてお兄ちゃんの意を察すると、その意も酌み、私は不退転の念をさらに強くするのでした。ここはお味噌というわけにはいきません。それでは、お兄ちゃんの模型ヒコーキに対し、私の顔が立ちません、そうではないでしょうか。
 それでなくとも、お味噌は哀しい。鬼ごっこでいえば一人の「隠れん坊」として、とり敢えずはゲームへの参加を許されます。許されこそすれ、彼は鬼にもなれないのです。鬼にならないよう励み努めるゲームで、ア・プリオリに鬼にもなれないお味噌は哀しい。それは「不死の哀しみ」ですーーいわば人外への、つまりは堕罪の自由も、それ故に救済への希望も彼には予め失われている!
 私はここで、更に「お味噌の存在学」ともいうべきものを展開してみたい誘惑に駆られます。でも、今は私たちの話に集中すべきでしょう。
 さて、中にはそんなお味噌に甘んじる者が皆無とは言いませんが、大方の年少者たちはそのような境遇からの解放、自立を求めていました。いつの日にか、義務と権利を負ってゲームに参加出来る日を(求められているのはノブレス・オブリージュ!)、子供たちは願っているのです。それには周囲の年長者の認知と同意が前提とされますが、その達成のためには本人の自覚と努力も、また、肝腎なのでした。それ故、時には毅然たる自己主張が許されなければなりません。許されるのです。さればこそ、そんな日々の営為の末に、いつの日にか一廉の「責任(レスポンスビリティ、この響きの裡にこそ、私たちの高貴な自由が約束されます)」を負って、一人前にゲームに参加している自分を発見するのです。
 そして、この日、私はそのアッピールをしたのでした。

 オンツァは私たちの先ほど来のやり取りを傍らで見ていましたが、こんな場合、彼は決して口を挟みません。どこか所在なげに、私たちがエキサイトすればするほどオロオロし、私たちの揉め事の無事を願うだけなのです。ですが、そんなオンツァも私の決意のほどを窺い知ると、目配せで、今でいうアイ・コンタクト、よしとしてくれてはいたのですーーカッジケナイ(忝い)、オンツァ!

〔ゴムを巻く〕

 さあ、お兄ちゃんの模型ヒコー機です。
 正直言って、それは易々と幼い者の手に負えるような代物ではありませんでした。さすがに一筋縄ではいきません。機体の大きさそのものが、そもそも、私などの手に負えるものではないのでした。そして、そんなことは私に充分承知されてはいましたが、プロペラのゴムを巻き切るのでさえ、たとえワインダー(高速ゴム巻き器)を使用したとしても、いざ手を染めてみると中々に骨が折れたのでした。それでも、ワインダーの使用中は、機体を支え持つ誰某かのサポートが必ずありますから、なんとかゴムを巻き切ることはできます。
 ところで、これからが一人の仕事になるのですが、機を飛ばすためには、ゴムの巻かれたプロペラをプロペラ台ごと、片手で鷲掴むようにして確保しなければなりません。掌の内で、プロペラは今か今かとそのエネルギーの解放を求めていますが、欲をいえばここで、まだ余力を残しているだろうゴムをもっと、もっと絞り、あわよくば少しでも機のパワーを稼ぎたいところなのです。ワインダーの使用後、プロペラを指で直に回す、お兄ちゃんたちは常々そんなことをしましたから、私もまたそのようなことをしようとして、躓くのです。すでに充分エネルギーを蓄えていたプロペラはやおら、私の幼い指を弾き、ゴムのエネルギーは一挙に解放されます。生意気さが仇となり、無情にもプロペラは虚しく回転し、私の思惑は水泡と帰します。再び、一からやり直しと相成ります。
 しかし、そんな失敗は主軸を手離したりするよりは咎が少ないのかもしれません。不注意に、主軸を握った方の手を離そうものなら、プロペラではなく機自体が回転します。プロペラの方は台ごと確保しているわけですから、直ぐさまどうこうというのではありませんが、油断大敵、不意を衝かれた挙句、狼狽の余りバンザイしてしまうケースだってあるのです。そんな頓馬なことにでもなれば笑いごとでは済まされません。模型ヒコー機の破損は免れ得ないでしょう。ゴムのすべてのエネルギーがなんの制禦もなく、一挙に解き放たれた際の機の暴れようったらなく、既述の私たちのもの言いを用いれば、ソンタラコトは年少者の手に負えるものではありません。万がひとつにも、そのようなことともなれば、年長者の迅速な処置が必要です(地上で、瀕死の巨大な飛蝗のように暴れ狂うヒコー機を、いつだって、お兄ちゃんたちは何事もなく拾い上げたものです)。さもないと、ヒコー機は目も当てられない有りさまとなります。つまり、機の「バラバラ事件」は免れません。特に幼い者はパニックに陥り易いから尚さらのこと、その辺はしかと心して掛からなければなりません。
 事実、そんな破目に陥った模型ヒコー機を目にしたことがあります。一例を挙げれば、主翼の一方が中途からぶっ飛び、垂直尾翼がひん曲がったりします。そんな際、機の所有者はブツクサ言いながらも修理に掛かったりしますが、最悪の場合は、その日一日の愉しみが烏有に帰することもあるのです。殊勝にも、そんな時の幼き当事者は修理中のお兄ちゃんの側で悄気返り、半ベソを掻き、反省頻りの風情ですが、修復が可能と知り、やがては無事修理が済むや、もう泣いた烏で、彼は一段と張りきって、そのお兄ちゃんのヒコー機を田の中に追い求めたりします。そんな顛末も今ともなれば、私の微笑を誘って止まない思い出のひとつなのでした。
 閑話休題、私の方でした。
 私のお兄ちゃんの機には金輪際、そんなことがあってはなりません。主軸を掴んだ手に一段と力が入ろうというものです。すると、一方の、プロペラを掴んだ手をプロペラが弾きます。一方の手に気を取られ、一瞬、プロペラの方の手が疎かになっていました。巻いたゴムが勢いよく解けていきます、先ほどまでの苦心が解けていきます。
 しかし、今はそんな悔みごとに感(かま)けている場合ではありません。機は詰まらない過失の時をこそ狙って暴れ出したりしますから、ここは本体をしっかり確保していなくてなりません。
  
〔そして、「初飛行」へ〕

 …もう大分、時間も使いました、周囲の視線も痛く、こんな時、お兄ちゃんが私の傍らにいてくれたらと思いますが、いません。私は孤独でしたが、望むところです。蠕動する主軸を固く握りしめ、今は空しく回転するプロペラを見遣りながら、私は泣きたくなりますが、意地にもなります。年少者の白い視線を背中に感じながら、ふと漏らしたくなる嗚咽を怺え、眼を瞬(しばた)きながらも再度、そしてなん度目かのゴムを巻きます。この度はオンツァのさり気ない手助けも得て、彼は最後の最後のところで私の機を支えてくれ、巻き切ったゴムの凝りも均してくれました。そして、そうなのです、あれやこれやの小さなミスも含めて、算え上げれば自分の齢(よわい)ほどの試みの末に(なんて私はブキッチョなのでしょう。この性は以来、我が人生の伴侶となるでしょう)、私はなんとかゴムを巻き上げたのです。心ゆくまでゴムを仕上げました。カー・レースに例えればガソリンは満タン、準備は整ったのです。
 ようやく、私は飛ばす体勢に入りました。
 両の手の間に、私の胸の前で、模型ヒコ―機は今にも飛び出す構えです。見よう見まねでなん度も心の内で反芻したように、引き絞った弓でも放つかのように、私はおもむろに機を頭上に振りかぶります。間もあろうか、お兄ちゃんの模型ヒコー機は慌しく私を蹴って、飛び立ちました。ワーオ! (Ⅲ-cへつづく)


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