写真 佐藤有(たもつ)

1937年生まれ
20歳の頃から身近な自然や子供たちを撮り続ける。
現在、茨城県龍ヶ崎市にて写真館を経営。


なつかしの昭和の
     子どもたち
国書刊行会

 

文 田中秋男

1948年生まれ
CMプランナーとして約35年ほど糊口を凌ぐ。
50代半ば心臓に病を得、
職を辞して文筆業に励む。


筑波の牛蒡 敬文舎 

 

 

〔美しい先生の勝負〕

 私は知っていました、口さがない村人たちの、あくまで一部からだけですが、彼女の華やかさに対する屈折した悪意のある評言が、いつもどこかで、彼女に囁かれていたこと。村の青年からは性的羨望の篭った濃密な注視を浴びていただろうこと、時に心ない野卑なからかいの言葉が女先生に投げ掛けられたこと。
 私は憶えています、先生が喪に服するような黒ずくめの出で立ちで教室にたち現れた日のことを。その啻ならぬ佇まいは子供の私たちに異様な感動を齎したと思います。その姿を、私はなぜか昨日のことのように思い出されます、あの日の、ひとりの女の子になってしまった彼女の姿と二重写しとなって。
 その日、そんなことは後にも先にもその日だけのことでしたが、先生の口からやや思いつめて、しかも毅然と、今の私なら処女の潔癖さでと表現するでしょう、今日の日の身なりの謂れを私たちの前に漏らされたのです。村の誰某からの、派手! の評言が、そして、その派手の下には先生の癖にが付随しいていたと思われますが、その一言が彼女をそのような振る舞いに駆り立てたのだ、と。そのことがなぜそのような衣裳に還元されなければならないのか、当時の私にはその脈絡そのものが朧気にしか把握出来ませんでしたが、そのコスチュームについては、今ならシックとするだろう、セクシーと言えたかもしれない、むしろ挑発的にさえ思えます――そこには、若い女性の抑えきれない、高揚した心身の火照りのようなものが感じられないでしょうか。私には勝負するか、あの日、あの時の先生の声が蘇ります。
 彼女に何があったというのでしょう? 今の私なら言える気がします。彼女は彼女なりの異議申し立てをしたのです。若い女性特有の性急さで、村の因循的な眼差しに、身体を張ってサシで勝負したのだ、と。そのプロテストにはいささか頓珍漢な嫌いがしないでもありませんが、私は泣けます。今の私なら、あろうことなら(!)、彼女を黙って抱きしめたいとさえ思います。

〔オルガン室で〕

 学校中でたった一台切りしかないオルガンのある教室で、ひとりオルガンを弾いている先生の姿を、私はなん度か見かけたことがあります。
 そこは音楽室であったはずですが、私たちは音楽室とは呼ばず、オルガン室と呼んでいました。教室の壁には西洋音楽の楽聖たちの肖像画がぐるりと掲げられていて、そのことだけでも、そこは私たちの日常とは随分とかけ離れた異質な雰囲気を持っていました。彼らは一様に長髪の白い鬘を被り(当時は鬘などとは思ってもいませんでした)、その肌えは桃色で、目だって黒くはないのでしたし、何よりその鼻梁の高さがどこか猛禽類の嘴を思わせました。
 果して、何か忘れ物でもしたのでしょう、お昼休みの時間でしたか、私はひとりそのオルガン室に立入ったことがあります。見上げると、とても尋常な人間とは思えぬ壁の者たちが、ギロリと灰白色の目をこちらに、私を見ています。すると、甲高い女性の悲鳴のような歌唱が私を襲い、私はその場に立ち尽くしたことでした。
 どれほどの時が流れたのか、私はほうほうの態でオルガン室から退散しました。以来、音楽の課業の度、私はそのことに気が気でなく、壁の異様な形相の面々を頻りと窺い見るのでした。
 放課後、そんな教室で、彼女はオルガンを弾いています。自分の奏でる楽曲に合わせて、外つ国の言葉で何やら口ずさんでいることもありました。
 その頃のことだと思います。私は彼女の下宿先である商家の上がり框で、同僚の中年の先生が酔(え)いに任せて、その勢いを借りて彼女への「愛」を切々と掻き口説いている光景に出喰わしたことがあるのです(それが愛だと知るには、私に如何ほどの経験が必要であったでしょうか。遥かに後々、私はそれが風采の上がらぬ中年男の岡惚れからの振る舞いと知ることにはなるのでした)。
 どんな経緯で私がその場に立ち会えているのか、今の今となっては夢のように定かではありませんが、文字通りの夢であったかも知れません。恐縮しきった形で正座し、固く困惑した表情の彼女を挟んで、商家のお爺さんとお婆さんが、框に片尻に座った中年の先生を、何やら執り成している姿がありました。どんな事情がそこにあったのか、彼自身は村のお茶屋で聞し召し、その帰りに立ち寄った風情です。
 当時の私には先生同士の揉め事、喧嘩だと思われていました。その証拠に、家に帰るなり、先生だって喧嘩すんのな、件の情景をこと細かく姉に注進し、要領を得なかったのはいた仕方のないことですが、あっさり、バァーカの一言を頂戴していました。姉はその辺の機微については、私の情報だけでとっくにご推察のほどが付いたのでしょう、というより、つとにそんな事情には通じていたのかも知れません、K先生とY先生のことでしょう、分かってるわよ――女の子は事この方面に関しては末、恐るべきといわざるを得ないのです。

 私の遠い記憶では、美しい先生は翌年に、出身地近くの町場の小学校に転任されました。K先生とY先生の顛末がどうであったのかなどは、当時の私とこの稿の、無論、関知するところにはありません。よって、私の「美しい先生の思い出」はこの辺で了とします。

   ☆☆☆

  放課後のオルガン室で窃み視た、放心したような彼女の美しい横顔を記憶の中に思い浮かべながら、いつの日にか私は思ったことがあります。美しい人は人知れずにいると、ひどく悲し気に見えるのはなぜだろうか、と。美しい人はそこにいるだけで数多くの人を悲しみの奈落に落とすから、美しい人は悲しく見えるのだろうか。「花に憂き世の咎はあらじ」とは思いますが、愛させること、それは果たして罪なのでしょうか? 人の気を引くことは悉く罪だという端的な言明が確かパスカルのパンセの中にあった気もしますが(「私は誰の目的にもならない」、パスカルは自身への愛だけではなく無償の自分への敬愛さえも、つまり、わが身が浴するどんな注目も罪と断じるのです)、美しくあることの酷(むご)さをどれほどの美しい人が知っているでしょうか。当節はそんな切ないほどに麗しき人も稀なるものですが――今は下世話な美人がもて囃される時代、それはそれで大変、結構!


能『西行桜』ダイジェストを観る 
                                  ――了。

付記

 「人がわたしに執着するのは正しくない。たとい、よろこんで、心からしてくれる場合でもである。わたしに対してそんなふうな望みをいだいた人たちを、ひょっとするとわたしはあざむくかもしれない。わたしは、だれの目的にもならないし、人々を満足させるものも持っていないからです。わたしは、いずれ死ぬはずのものではないのか。してみると、かれらの執着する対象が死んでしまうわけだ。だから、まちがったことを人に信じこませるのは、やさしくたらしこんで説得し、人もよろこんで信じてくれ、そのことをわたしもうれしく思っているとしてもやはり罪なことであろう。それと同じように、わたしという者を人に愛させるのも罪なことである。そこで、わたしが人々を誘惑して、自分に執着を持たせるようにしているとすれば、人々は虚偽を受け入れようとしているのだから、その人たちにむかって、そんなことは信じてはならないと告げてやるべきである。そのことが、わたし自身にとってどんなに利益になることであってもである。それと同様に、人々は、神のみ心にかなうために、または、神を求めるために、自分の生涯をすごし、思いをつくすべきだからである。」

       c完訳「パンセ」パスカル著、田辺保訳(角川文庫)より。


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