写真 佐藤有(たもつ)

1937年生まれ
20歳の頃から身近な自然や子供たちを撮り続ける。
現在、茨城県龍ヶ崎市にて写真館を経営。


なつかしの昭和の
     子どもたち
国書刊行会

 

文 田中秋男

1948年生まれ
CMプランナーとして約35年ほど糊口を凌ぐ。
50代半ば心臓に病を得、
職を辞して文筆業に励む。


筑波の牛蒡 敬文舎 

 

 

 以下、私は工作にあたっての準備と若干の手順についても、ここでお浚いをしておきたいと思います。

〔模型ヒコー機の工作〕

 まずはセメダイン。商品に拠ってはこの種の接着剤が内包されているケースもあったと記憶しますが、翼紙を貼る糊と同様、概ね、こちらで用意されたと思います。
 子供時代に嗅いだこの揮発性の強い接着剤の臭いとハンダの焼ける臭いを、後者はハンダ鏝の鏝先に着けたペーストの焼ける臭いなのですが、私は幼年時代の、この両者の醸し出す臭いが忘れられません。長じた後もそのような臭いを嗅ぐ機会に恵まれた際には、私は瞬時に、この時代に立ち帰っている自分を度々発見します。
 何も殊更ここで、失われた時を求めた誰やらの「マドレーヌの欠片と一杯の紅茶」を持ち出すほどのことでもありませんが、確かにそんな臭いの記憶があるものですね(セメダインとハンダの臭いが私のマドレーヌの欠片と紅茶の臭いなのだとすることは愉快なことではあります)。
 縫糸、木綿糸であること。これは母や姉のお針箱からくすねます。接着剤で接着される箇所は、必ず、木綿糸で補強されます。主軸と主翼台や、プロペラを支える台などは勿論のこと、針金の脚も主軸を挟んで、縫糸によって幾重にも結わえ付けられました。その際、糸は決して重ねず、まるで電磁石のコイルでも巻くかのように、一巻き一巻きしっかりと結わえます。その仕事は傍目にも実に律儀なもので、ここでは巧遅であることが何より求められます。巻いた糸の上には、さらに接着剤が塗り立てられ、これで、完璧。
 実はこんな地道な作業にこそ、作り手の工作への偏愛が滲み出るのです。しかし、後年になるに従い、このような箇所からプラスチック製のユニット化が起こり、工作がより簡便になっていったのだと思います。このような傾向を「工作の民主化」と呼べば呼べなくもありませんが、そこにあるのは模型ヒコー機に於けるポピュリズム、一種の衆愚主義ではなかったでしょうか。
 蝋燭。翼を作る竹ヒゴの曲がりを修整します。当該竹ヒゴを蝋燭の炎に炙りつつ、慎重に慎重に、求める理想の形に撓めていきます。
 竹ヒゴと竹ヒゴを継ぐアルミニューム管は継いだら必ず潰します。そのためのペンチ、あるいはそれに準ずる工具。その他、錐。鋏。鋏は「蟹さんの鋏」、小さな和鋏がこの手の工作にはなにかと使い勝手がよかったのでした。これも母や姉のお針箱からちょいと拝借。「肥後の守」と呼ばれた簡易な小刀などは言わでものこと、それは工作少年のみならず、当時、村の少年たちの必須の持ちものでした。
 翼を張るーー翼の骨組みには、水で粘度を薄めた糊を満遍なく塗布。ここで必要となる道具は刷毛ですが、絵筆等でも代用は利くし、そんなことは面倒だと思われる向きには指があるじゃないか、となります。なにせ、ここは拙速を旨とするところです。もたもたしていると糊が乾く。翼紙を急いで貼ります。出来る限りピンと貼って、余分な部分は取り除きます。
 ここはよくしたもので糊の水分が紙を破り易くするので、翼の枠組みに沿って指で千切っていきます。食み出した紙の縁はヒゴの下側までしっかりとたくし込みます。これはとても大切な仕事です。飛行中、翼の紙が剥がれでもしたらオオゴトです、目も当てられません。
 全ての翼に紙を貼り終えたら、霧を吹かなければなりません。そこで霧吹きが必要となるのですが、なあに、昔の子供は自分の口で霧を吹いたものです。お母さんだってアイロン掛けの時、よく自分の口で霧を吹きました。
 新聞紙を敷いて、その上に、今や全貌を顕したヒコー機を置いて霧を吹いていきます。なんとも満ち足りたひと時。やがて紙に吹きつけられた霧が乾くと、翼は見違えるほどの張りを持ってそこにあります。総ての翼が気を付け! をしているようです。その姿は誇らしくも私にはなぜか切なく思われますが、その「なぜか」はよくわかりませんーー(達成感にはある種の悲哀が伴う、そんな人間心理があるとでもいうのでしょうか)。
 不備はないか、詰まらぬ粗相をしでかしてはいないか、しばしの点検を済ませたら、私たちは最後の調整に入ります。
 まずは機のバランスを見ます。設計図の指示に従い、主翼台の下方に位置する重心点に指を当て、前後の傾きをみます。「弥次郎兵衛」の要領です。期せずして、前後に著しく傾くようなら錘でもってその傾きを匡します。その錘には市販の釣り用の鉛の板を適宜に千切って用いるか、醤油の一升瓶の口を覆っていた錫箔が重宝でした。
 なお、余談に亘りますが、この錫箔を蒐めて鉛と溶かすと自家製のハンダとなります。庭前に七輪を持ち出し、缶詰めの空缶の中で、お兄ちゃんは自家製のハンダを作ったりもしました。あんなものが炭火の火力程度で湯のようになってしまうことに私は驚き、更に、錫が多いと緩く、鉛が多いと溶けにくいハンダとなる、そんな説明に感心するのでした。ああ、そうなんだ、私は蹲踞し、両膝の上に両肘を立てて頬杖を付き、その一言一句に耳を傾けます。
 機の全体の姿を見ます。ヒコー機を目の高さ、正対します。主翼や尾翼に歪みや捩れはないか、垂直尾翼は正しく垂直か、入念にチェックします。そこで僅かな難点でも見つけると、私たちは自分の吐息の熱を利用して、翼の骨である竹ヒゴの微妙な歪みを修整しました。そんな時は私も一役買ったものです。幼いゆえの熱い吐息を、お兄ちゃんの手元に吹きかけました。
 調整が一段落すると、私たちはゴムの動力を用いず、奥座敷の広さを利用し、機を部屋の隅から隅へそっと飛ばしてみます。そこでは飛び方を見るのではなく、「堕ち方」を見るのです。双曲線や極端な放物線を描かず真っ直ぐなラインを曳いて堕ちてくれるのがいいのです。そんな事を何度か繰り返しながら、重心の位置や主翼の反りを決定します。
 もう、ここまで来れば、そう、後は実戦あるのみです。
私たちは糸ゴムをしっかりと巻き、プロペラの回転具合を見、その風をお兄ちゃんは顔に受け、私は坊ちゃん刈りの前髪を戦がせ、OKとなるのです。
 それを汐に、私たちの模型ヒコー機は部屋での最後の滑空をします。テスト飛行です。緩くゴムを巻き、プロペラを空転させたくらいにして、その余力のタイミングを計って、そっと飛ばします。その節、プロペラが機自体の動きとともにゆっくり回転し、………………………………………今しも、部屋の隅に柔らかく着地した模型ヒコー機は、青い畳の上で限りなく遠方に見えるのでした。

 さてこそ、お兄ちゃんの模型ヒコー機は完成したのです。その日は暮れかかっていましたから、「初フライト」は明日となりました。
 明日ね。
 明日。
 そういうことでした。
 翌日、日曜日、約束の午後――私とお兄ちゃんは私たちの「模型ヒコー機の庭」へと向かいます。

☆☆☆

 私は以上の、ⅦとⅧの章を以って、思い出の中の、模型ヒコーキの素材と工作手順についてのお話は了とします。それらを、言葉でどこまで再現(工作)できるのか、私は一種の文学的実験、そんなつもりで書き始めましたが、どんなものだったでしょうか。

                               (2020/8/20 )
         
                   
         ******  次回へ   ******

 HOME  前回へ



























 









































































© 2019-2020 路地裏 誠志堂