写真 佐藤有(たもつ)

1937年生まれ
20歳の頃から身近な自然や子供たちを撮り続ける。
現在、茨城県龍ヶ崎市にて写真館を経営。


なつかしの昭和の
     子どもたち
国書刊行会

 

文 田中秋男

1948年生まれ
CMプランナーとして約35年ほど糊口を凌ぐ。
50代半ば心臓に病を得、
職を辞して文筆業に励む。


筑波の牛蒡 敬文舎 

 

 

「模型ヒコー機の庭へ」

 翌日、日曜日、約束の午後、私たちの秋の空はあくまでも高く、風も穏やか、絶好の飛行日和となりました。朝の内から、村のそこかしこの空には既に、模型ヒコー機が飛んでいます。
 私とお兄ちゃんは村の屋並みを離れるべく、村の青きを踏み野道を急ぎます。模型ヒコー機は私が持ち、両手で掲げるようにして小走りに歩み、道々、駆け出してはプロペラの回転を愉しみます。
 その道行きを急いで記せば、以下のようになるはずですーー農地改良される前の、昔ながらの農道の傍ら、道往く人を守護するだけではなく、子供たちの護り神ともされる塞(サエ)の神、私の村ではドウロクジン(道陸神)と呼びましたが、その路傍のカミを横目に見て、緩い曲線を描いて流れる天然の小川のひとつも渡れば、その土橋の先には、本日の私たちが目指す、田園の真っ只中に坐(ましま)す鎮守様です。小高い塚の天辺には粗末な祠が鎮座し、その結界をまばらな常緑樹で縁取った鎮守の杜には遠目に窺っても都合六、七人のヒコー機野郎たちが、それぞれにそれぞれの幼き者を連れて屯しています。
 言わずもがな、お兄ちゃんの仲間たちです。決して女の子はいないのでした、それが暗黙の私たちの掟。私は堪らず畦道を駆け出しますが、お兄ちゃんはおっとりと仲間に加わります。ヤァ、ヤァ、ヤァ、お兄ちゃんたちは大人の挨拶をします。私たち年少者は年少者で目配せしあって挨拶らしきものを交します。なぜかしら、なんだか面映い気もするのでしたから。
 年少者には年少者の役目があって、お兄ちゃんたちの飛ばしたヒコー機を田の中に追い求め、我先きにと確保してはお兄ちゃんたちの下へと届けるのです。そんなことを忠実に繰り返しながら、機会があればヒコー機を飛ばさせて貰うわけですが――そのことは既に「模型ヒコー機の庭で」の中で、私は充分に書きました。
 そこで、私は模型ヒコー機の周辺のことで、ニ三、書き洩らしたことをここでフォローしてみようと思います。
 まずは、ワインダーについて書いてみます。

〔ワインダーのこと〕
 
 ワインダーと呼ばれる「高速ゴム巻き器」については、「ロケットと潜水艦」の項でその名を挙げていたと思いますが、幼少時の私に特異な印象を齎した掌サイズのオブジェ、そのゴム巻き器のことを語ります。
 お兄ちゃんに所持されていたワインダーの威力は目を瞠るものがありました。クランクの一回転でかなりの回転数を稼ぎ、そのギヤ比は五倍ほどでしたでしょうか。形状は、10本入りのピースの煙草箱ほどの矩形で(それとも円形だった?)、構造は至ってシンプルです。ステンレス鋼のボックスの中には径を異にする歯車(ギア)が何点か組み込まれていて、箱の外に糸ゴムを掛ける為のフックを覗かせ、その反対側には杷手(クランク)、これを回す、以上となります。
 ワインダーは模型ヒコー機の周辺器具とはいえ、ゴム巻き器である以上、工作ボートのゴムも巻けます。どちらかといえばその頃、私などはそちらでの利用価値を重く見ていました。
 つまり、ボートの動力のゴムを巻く、そちらの方で、より重宝したということです。なぜって、プロペラよりもスクリューの方がゴムを巻くには何かと難儀なところがあったからです。直接、スクリューを指でというわけにもいかず、チビた鉛筆とか、割り箸、あるいはその辺の棒切れとかを駆使してスクリューを回したものです
 以下、具体的に陳べれば、ゴムをセットしたボートの本体を鷲掴みに掴んで、下世話な喩えで恐縮ですが、まるで納豆でも扱き混ぜるように、一気呵成、グリグリグリグリ…、こんなもの手早く巻けりゃあ、それで御の字、四の五もなく、その作業は粗野を旨とし、やけに即物的なのでした。としても、その作業は幼い者にはけっこう荷が重く、私などはしばしば手元が狂い、スクリューに棒切れを弾かれ、挙句にはその棒切れさえ折られてみたりと、随分と梃子摺りました。
 その点、そこへいくと、ワインダーはボートのゴムを実にスマートに巻いてくれたものです。そして、私はどんなにワインダーのお世話になったことでしょう。
 だから、この道具は工作ボートの方にこそ打って付けの、いやはや、便利なものだと私などには身に沁みて有り難く思われていました。そのくせ、試してみるまでは半ばその実力を疑問視していて、初見の際には、何、これ、ワインダ? 反って面倒なんじゃないのなんてまぜっかえし、憎まれ口のひとつも叩いていたのに、いざ使ってみればその便利さに、掌を返したように感心しきりなのでした。我ながら現金な者で、子どもにはそういうところがあるにしろ、呆れます。
 今更、ですから、私はワインダーの模型ヒコー機に於ける実践的な魅力など、ここではくどくどと陳べないつもり。だって、そんなことは模型ヒコー機野郎ならとっくの昔にご存知だろうし、マニアならずともご推察のほどは容易いと思われるからです。ワインダーのゴムを巻くスピードには、誰もが舌を巻きましたし、高速の名にウソはありませんでした。
 ともかく、ワインダーは現地で自然発生的に形成される集団に一台もあれば充分な道具で、お兄ちゃんのいるところでは自ずとそれが仲間の共有物となりました。
 私たちはなん度だってヒコー機を飛ばしたいのですから、ゴム巻き器による時間短縮はそれはそれでとても宜しいわけです。しかし、年長者の中にはゴム巻きの下拵えはワインダーでそそくさと済ませ、後は自前の指で一巻き一巻き、その巻き具合を確かめながら巻き上げていく奇特な御仁もいました。やはり、器械まかせでは心もとないのでしょうか。それもまた、宜なるかな、わからない心境ではありません。

〔ゴムを巻くということ〕

 当時、子供たちは模型ヒコー機のプロペラのゴムを実にマメマメしく巻いたものです。以下、そのことをできるだけ有体に語ってみます。
 まずは機を裏返し、片方の手で機軸をしっかり支え、もう一方の手の人差し指でプロペラを回転させ、一巻き一巻き、巻きます。それぞれのリズムとスタイルで、ある者は齷齪と、ある者は泰然に、ある者はなぜか沈鬱な面持ちで、ある者は軽快に、そして快活に、揚言すればこのひと時が、模型ヒコー機の飛翔への、各自の心の高まりを準備していたのだと言えなくもありません。
 としても、私にはその作業がひどく剣呑なものにも思えました。その最終、ゴムが極限にまで巻き上げられていくところなぞは反って見ている方がヒヤヒヤするほどなのですからーー幼い私は畏怖の念さえ憶えたものです、指をプロペラで弾かれでもしたらどうなることか、と。 
 実際、私はなん度かそのような場面に遭遇もしていて、当事者にあっては、別にとり立てての怪我などはしなかったのですから、まあ、そちらはひと安心としても、無論、多少の痛みを伴うのはしょうがない、そんな痛みは弾かれた当の指を口に啣えてる間に忘れられてしまうでしょう。ただ、今までの労苦も水の泡、折角の巻いたゴムが元の木阿弥になるのが傷ましいのです。舌打ちのひとつも打って、チェッ、また、一からやり直し。年長者の間ではそのような過失はほとんどありませんが、年少者の中には結構あるのですーー以上、そのようなことは、「模型ヒコー機の庭で(Ⅲ―b)」の「ゴムを巻く」の項で、自分の失敗に託けて、私はクドイホド書いたはずです。
 では、ゴムはどこまで巻き上げられるのでしょうか。勿論のこと、それには自ずと限界があり、そこを無理すれば鈍い衝撃と共にゴムはぶち切れてしまうでしょう。さもなければ機体自体を傷め兼ねません。延長すれば長さは機軸を遥かに凌ぐ糸ゴムです。予め、二重、三重にし巻いていきます。
 当初、糸ゴムはゆっくりと綯い合わされてはいきますが、やがて至るところで瘤起を始め、瘤は瘤同志で縺れ、新たに瘤起し、一層、堅固な瘤を造ります。なおもゴムを巻いていけばゴムの瘤はその終末に向けて幾可級数的に増殖し、ますます稠密になっていきます。時々、不均等なゴムの凝りを指先で均らしながら更に巻きます。
 …既に、糸ゴムは機軸の下で糾われた一本の鋼索、ワイヤ・ロープです。と、するよりは一匹の剽悍な生きものです。更に、更に念を押すようにゴムを巻けば機軸はギシギシと悲鳴を洩らし、もうこの辺が限度なのでしょう、緊密に縒り込まれた褐色のゴムのロープは全体にエネルギーを含み、精気に充ち、そこには猛々しくも静謐な雰囲気さえ窺がえます。大袈裟を承知で形容を計れば、まるで獲物に襲いかかる寸前の猫科の獣のようで、その緊迫感は恐いほどでもあり、そんなゴムの気勢にはこちらの身も引き締まります。
 さてこそ、ゴムは巻き上がったのでした。
 以上はワインダーを用いない時の「ゴムを巻く」描写でした。では、ワインダーの場合は、私たちはどうしたでしょう。その時は糸ゴムを接続したプロペラを誰某かに確保して貰い、機のお尻の方から一気にゴムを巻いていきます。その節は相見互いで、「××ちゃん、頼む」に「はいはいはい」で、気持ちよく助け合いました。
 ちなみに、一人の場合は一人の場合なりにワインダーの遣りようはあるのですが、詳述すれば、裏返しにした機の機軸をしゃがみ込んだ両膝に挟んで、その際、プロペラは地面と己が爪先を利用して固定。その上で、心ゆくまでワインダーでゴムを巻く。でも、衆人の中でならよっぽどの事情の下にあるか、よほどの変人でない限り、そんな不自由なワインダーの使用は常識的にはしません。

 ☆☆☆

 かくして、ワインダーはあったのです。ですが、それは誰もが購入出来る商品ではありませんでした。それなりに値の張るものではあったし、贅沢品、所詮、村の万屋に置いてあるようなものではありませんでした。
 ワインダーは町で売っている商品でした。

(Ⅸ―bにつづく)
                                  (2020/9/10 )
         
                
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古いゴム動力機ワインダー
(ヤフーオークションより)







































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