写真 佐藤有(たもつ)

1937年生まれ
20歳の頃から身近な自然や子供たちを撮り続ける。
現在、茨城県龍ヶ崎市にて写真館を経営。


なつかしの昭和の
     子どもたち
国書刊行会

 

文 田中秋男

1948年生まれ
CMプランナーとして約35年ほど糊口を凌ぐ。
50代半ば心臓に病を得、
職を辞して文筆業に励む。


筑波の牛蒡 敬文舎 

 

 

〔お兄ちゃんのこと〕

 秋口の、未だ模型ヒコー機の飛ばない日、軒先からの雨垂れが単調なメロディを奏でるお兄ちゃん家の縁側で、私は仰向けに寝転びながら、あるいは俯伏せに伏しながら空しくワインダーを回しています。回す速度に変化を付け、その節のクランクの手応えや、カリカリ、カリカリと回転に釣られて発するメカニズムの呟きの、その音の変幻に飽かず耳を傾けました。
 そして、日がな一日、しどけなくお兄ちゃんの側で過ごします。お兄ちゃんはそんな私をかまわずにして措き、自分の仕事に勤しんでいます。私は私でそのような懶惰な時間も堪らなく好きなのでした。
 近々、お兄ちゃんは模型ヒコー機の制作に取り掛かるでしょう。だって、あの縦に長いパッケージはすでにお兄ちゃんの傍らにあったのでしたから。でも、私は催促めいたことは噯気にも出しません。
 この件に関し、お兄ちゃんにそんな差し出がましい口を利くことは不躾なのだろうと、幼いなりに遠慮されてはいたのです。一目でそれとわかるあの袋を眼にした時、思わずハッと息を呑んだにしても。それがまた、私とお兄ちゃんの間にある阿吽の呼吸、所謂、男同士の付き合いの何かだろうと、私には私なりの解釈があったのでした。
 まさか、そんな年恰好で? などと問うなかれ。なぜなら、そのようなことは年齢の多寡ではなく、単なる性質に拠るところが大きいのですから。翻って考えてもみるならいくつになってもそんな機微に疎いご仁はいるものですし、どんなに幼くっても、そのような事情に感応し易い子供がいても可笑しくはないのです。
 さてこそ、私は私のお兄ちゃんのことへとペンを進めます。
 お兄ちゃんには総じて、なんとも言えぬ無造作な気分がありました。たとえば、模型ヒコー機のパッケージの話に話を戻せば、いざ制作に取り掛かるまではそんな袋など気にも懸けませんでしたし、妙な素振りで私の気を惹く真似など一切ありません。今にして思うと多少、演出されていた嫌いがしないでもありませんでしたが、そうであったとしても寡黙にして春風駘蕩、生まれながらにそんな気象を持つ少年はいるものです。
 一方、私は乳胎児期の育ちが悪かったのでしょう、何ごとをなすに中っても鞠躬如として鬱悒(いぶせ)きところがあり、何かと言痛(こちた)く、約言すればその性、著しく恬淡さに欠きます。そんな私だからこそでしょうか、お兄ちゃんの側は、お兄ちゃんの側にいるだけでうらら居心地がよかったのです。
 お兄ちゃんは美少年だったと思います。使い古された修辞を申し訳なくも用いれば、田舎の少年にしては珍しいほどの色白で、明眸皓歯、白皙の頬の肌には桜色さえ仄見えて、うっすらと匂うようです。私の以後の記憶の中でさえ、あんなにも美しい頬の色を持った人を、少年であったればこそか、異性を含めても知りません。
 往年の少年雑誌を見開けば巻頭を飾る口絵の中で、冒険少年の見目形や少年武者の顔容(かんばせ)に、私はお兄ちゃんの面影を容易に見出すことができます。
 そんな記憶の中のお兄ちゃんの面影は今尚、私の憧れであり、その人となりは心の鑑です。

〔侠の人〕

 私の幼少期の、唯一と言ってもよい偉業に、村主催の相撲大会での五人抜きがあります。その際、私のオンツァは村を流れる大河の向こうまで遠征しては、私を嘉するために、わが村では物珍しいアケビを、わざわざ採って来てくれたのでした。そのことは「記憶の中の異人たちⅩ―b」は「アケビ」の項に書きました。
 私の五人抜き、その偉業(?)を私がお兄ちゃんに知らせないわけはありません。ここで、その際のお兄ちゃんの振る舞いについて書きます。
 お兄ちゃんは私の息せき切っての報告に、結果については既に承知されていて、私のお喋りを愉しそうに聞いてはいましたが、一通りの報告が済むとニヤリと擽ったそうに咲笑い、それがこんな場合のお兄ちゃんの笑い方なのですが、こんな笑みの後には予測の出来ない「サプライズ」が待っています。
 果たせるかな、部屋のひと隅に私を導き、「いいよ」とだけ言いました。それはお兄ちゃんの宝もの(それはとりも直さず私の宝ものです)から欲しいものがあるなら、「なんでもいいよ」を意味しました。世界へのレスペクトに満ちた宝物の数々、私は息を呑んだことは言うまでもありません。そして、迷いに迷った挙句、中でも最も詰まらないもの、いかにも取るに足りぬものをわざとのように手にするのでした。
 お兄ちゃんがそう約束した以上、何を手にしようが快く受け入れてくれることなど、私にあっても百も承知されているくせに、数多の宝ものが私の目の前に燦然と輝いていたというのに、私はいつものヘマを仕出かすのでした。
 以後の人生の中でも、稀にこれに似たような事態に立ち至った際、私は同様な振る舞いをいく度となく繰り返して来たことでしょうか。それはどうしたわけなのだろうと、我ながら思わざるを得ません。遠慮深いのではありません、むしろ、欲が深すぎるのです。業が深いとしても同断ですが、その辺の心の機微についての解説は省かせて頂きます。貧乏籤と承知しつつ貧乏籤を引いてしまう、引きたくなる、こんな天ノ邪気、業の深さをどう説明すればよいのでしょうか、私にはよく分からないからです。こればっかりは思い当たる人には易々と思い至ることでしょうし、思い至らない人にはどんなにご説明を図ったところで金輪際、理解に及ばないことと思われます。
 果たして、こんな陳述を、皆さん、どう思われますか。
 ともかく、お兄ちゃんの「いいよ」について若干の言葉を継げば、そして極言すれば、たとえ百種類ものが標本されたあの鉱石の標本箱でさえ、この際、欲しいと言ってのければ、勿論、そんなことはこの世で許されないことくらい、当時の私にだって状況判断はできましたし、そして、お兄ちゃんから直々に薦められたとしてさえ、滅相もない! 私は固辞したでしょうし、その程度の遠慮は年端のいかぬ子供だって弁えてはいるものです。
 だから、そんなことは論外だとしても、一旦、いいよ、を口にした以上、どんな無理難題にだってお兄ちゃんは何事もなく対応したはずです。私は知っています、お兄ちゃんはそういうタイプの人なのです。時代が時代ならば、この人はそんな約束の上でなら、自分の命でさえ投げ出す底の人間だったかもしれないのですから。
 少年とはいいながら、彼が古代東洋的人格のひとつ、「侠の人」であると理解できたのは、遥かに後年のことですが、畢竟、お兄ちゃんは唯々諾々と己が生を全うするような人となりではありませんでした。
 そして、そのことについて語るにはお兄ちゃんのもう一つの、別種の「物語」が必要でしょう。しかし、その任は「お兄ちゃんとボクの物語」の終了に際しての、この稿にはなく、また到底、私(とボク)にはその準備がなく、無理な話というものです。
 さればこそ、ここに「お兄ちゃんとボクの物語」は了とします。
 
        ――了
                                  (2020/10/1 )
         
                
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