写真 佐藤有(たもつ)

1937年生まれ
20歳の頃から身近な自然や子供たちを撮り続ける。
現在、茨城県龍ヶ崎市にて写真館を経営。


なつかしの昭和の
     子どもたち
国書刊行会

 

文 田中秋男

1948年生まれ
CMプランナーとして約35年ほど糊口を凌ぐ。
50代半ば心臓に病を得、
職を辞して文筆業に励む。


筑波の牛蒡 敬文舎 

 

 

 世の中に、抒情詩や叙事詩といったスタイルがあるなら叙物詩という形式があってもよいかなと思ったりします。詩と呼べる代物かどうか不問にしても、何かひとつのモノに特化した思い出話をしてみようと思いました。

 「ブーブー紙」

 幼少時、私は蝋紙が好きでした。
 かつては大手メーカーのキャンディやキャラメルを、今でもそうなのかもしれませんが、一つひとつ包んでいたのは、大方、蝋紙でした。その中でも色や柄の奇麗なものは女子たちの蒐集の対象になったりもします。
 女の子はなんだって奇麗なもの好むから、別段、怪しむに足りませんが、紙に限っていえば色紙や千代紙の類い、何やら佳きものを包んでいたらしい紙なども、彼女たちの趣味の範囲です。彼女たちはそんな紙切れを性懲りもなく、布地の切れ端なんかとともに、これまた恐ろしく奇麗なな箱に溜め込んだりしました。
 家の姉もそんな一人でしたが、姉はもはや私みたようながさつな者を、彼女の大切なものの傍らに寄せ付けません。というのも、この歳の離れた姉の姉様人形を、そこの処はどうなっているのだろうと思って、千代紙の裾を捲って悪戯の限りを尽くして以来、私は彼女の部屋に入ることすら御法度になっていましたから。
 ちなみに、そこはどれもこれもがのっぺらぼうの紙ぺらで、私はいたく鼻白んだことを憶えています。だから、姉の方はひとまず置いておけるとしても、間が悪いと近所のお姉さんに掴まり、得々と講釈付きでそんな布切れや紙切れの類い見せられます。ちゃん付けで名前を呼ばれ、ねぇ、キレイでしょうと言われたって、私風情にどんな対応が出来たでしょう。
 そんなことよりも、私はこんな姿を学校仲間に見られでもしたらと気が気ではなく、そのような羽目にでもなれば、私の男の子としての矜持もなにもあったものではないのです。ああ、それなのに、私は内心辟易しながらも大人しくしていましたから、そんな近所のお姉さんたちによく目を付けられました。そして、いいように構われました。
 いつの日にかなどには、そんなお姉さんの二、三人に全身を擽られた思い出が私にありますが、あれは何であったのでしょうか。未だに、私には彼女たちのあの衝動がわかりません。顔見知りのお姉さんの部屋に、いつもの段で連れ込まれ、するとそこには彼女のお友だちがいて、珍客である私は彼女たちの態のいい慰み者になってしまった具合でした。初めは互いに笑い合いながらふざけ始めたのですが、いつしか妙な熱気を帯び始め、私は彼女たちに素っ裸にされていたのですし、その上、いや、止めておきましょう。
 では、男の子の方はといえば、私の場合ですが、チョコレートやある種の銘柄の煙草箱から思いがけなく手に入る銀紙などは、すぐさま捨てるには忍びないのでした。時にはおねだりまでして手に入れたものでしたが、だからといって溜めておくなど金輪際、思いもしませんでした。
 運が良ければ銀紙は、襯衣の胸ポケットなんかに、しばし保存されました。そして、遊び仲間との間でなにがしとの、といったって螺子、釘の類いか、椎の実数粒ほどの交換価値しか持たなかったと思いますが、まれに物々交換に供されたりしました。ですが、なにかとこちらも忙しい身、時に忘れらさられ、洗い立ての襯衣のポケットからなんとも情けない有り様で発見されたりします。
 さもなければ、それらはしばらくは玩ばれるが、やがてはもどかしくなって、丸めて捨てられてしまうのがオチでした。この種のじれったさは折角手に入れた蜻蛉や蝉の類いの処遇に際しても見受かられました。それらは入手時には珍重されこそすれ、玩ばれた後には羽根や手肢は毟り取られ、やがては打ち捨てられてしまうのです。
 さて、私の蝋紙ですが、それは煙草の大箱を外装していた紙で、これをそっくり剥がすと、新聞紙一面ほどが手に入ります。村で煙草を商う家の少女が、その大判の蝋紙を几帳面に畳んで、度々、学校に持参しました。その際、私は必ずその一部を譲り受けました。
 この紙は大人たちの手にかかると、滑りの悪い障子の敷居を磨いたりする道具に身を窶したりするのですが、いや、私たちだって誰やらを、もちろん担任の先生をですが、転(まろ)ぶまでもなく、よろめかせたいばっかりに、それで教室の入口の床をせっせと磨き込んだりしたでした。
 女の子たちは私たちを侮蔑の眼差しで見ましたが、企てが成功すると大いに喜ぶのはむしろ、その女の子たちなのでした。そのくせ、事後、告げ口にまで及ぶのは決まって彼女たちで、私には女の子の心情がどうにも理解できませんでした。それは今なお、この性を異にする人たちへの、私の謎のひとつでもあります。
 私はそんな悪戯も悪くはないと思っていましたが、この蝋紙自体が好きでした。白濁した蝋の光沢を身に纏い、蝋臭く、取りつく島もないそのツルツルした感触が好きなのでした、クシャクシャになった使用済みには目もくれませんでしたが。
 中でも印象深いと思うことは、私の記憶でいえば、この蝋紙をどんどん稀釈していった先には、私たちが愛して止まなかった、あの模型ヒコー機の翼の薄紙が予想されていたことです。というのも、私などは模型ヒコー機のパッケージが開封されると、翼の紙を早速手にし、必ずや鼻先に持っていったものです。その紙の臭いは、遥か彼方からやって来る態の微かなものでしたが、どこか蝋臭い気がしました。その風合いも生なりのものではなく、膏を含んだ艶があってスベスベしています。しかも嫋やかです。
 では、この模型ヒコー機の薄紙はなんと呼ぶべきものなのでしょう。蕪雑な私たちはなんの芸もなく、トイレット・ペーパー(落とし紙)を「便所の紙」と呼ぶように、単に「ヒコーキの紙」と呼んでいて、私は常々そのことで気に病んでいました。と、然る日、松岡正剛氏の著書(「フラジャイル(弱さからの出発)」筑摩書房刊)の中で、「ブーブー紙」とあるのを見つけ、ああ、そうなのか、ブーブー紙と言うのだなと知りました。
 すると、ほどなく、私が敬愛する閨秀画家から、彼女は自作に白痴の美を自認する(わが意を得たり!)、そのJ・Oからの私信に、どうしてそんな文面が可能であったのか、その前後の脈絡は亡失してしまいましたが「薬を包んでいた薄紙」をブーブー紙という、と書き記されていたのでした。
 少女の頃、薬紙の半透明の薄紙を集めては唇に当て、ブーブー、ブーブーと震わせて遊んだとも書かれていて、私はゆくりなくもその愛すべき名前の謂われを知ることになりました。と同時に私は、そうそう、あの頃の粉の薬は小さく分封され、そこには秘密めいた包み方がありました、そして、使用済の、そのような薄紙を吹いていると、なんだか唇がこそばゆく、そのこそばゆさが面白かったのだと、ありありと私にも思い出されていました(わがJ・Oこと、小沢純、そうだったよね)。
 なお、余事ながら、模型ヒコー機の紙を巡る、この時を躱さぬ上手すぎる暗合を、集合的無意識の稀代の心理学者、C・Gユングや、量子力学の世界では「排他原理」の発見で知られるW・パウリなら、この一連の出来事をして「シンクロニシティ(共時性)」とと言うでしょう。
 では共時性とは何か、一言で頼むと言われれば「偶然に一致する諸因子間の非因果的相互連関」のことです。私は単に「意味のある偶然」と受け取っていますが、要は、私たちの心理が時空の影響を免れないように、私たちの時空だってどうも、ユングとパウリに拠れば、私たちの心理の影響下にあるらしいのです。もし、そうだとするならば、それはそれでかなり愉快なことです。だって、そうともなれば時空の方だって、うかうかとはしていられまい、心理学に求めよ、あなたは物理学的に得られるだろう、ってことになるかもしれないのですから(この段、海鳴社刊「自然現象と心の構造(非因果的連関の原理)」C・G・ユング、w・パウリ著、河合隼雄・村上陽一郎訳、参照)。
 シンクロニシティ、それはまた愛の科学現象といえそうで、つまり、いやいや、今はそんな駄弁を弄している場合ではありません、話を進めましょう。
 上手い話は続くものらしく(取りも直さず、このようなことを共時性というのではなかったでしょうか)、実は以上の文章を認めた数日後、その「富士日記」(中公文庫全3冊)を読んで以来(「ユルスナールの靴」の須賀敦子の文章とともに)、私が畏れ敬う女流文章家である武田百合子の、これで読み収めかと手にした最後のエッセイ集(「日々雑記」)に、以下のような報告が綴られていましたーー箱付きの本などにかけてある半透明の薄紙のこと、「あれはなんという名前の紙なのか」と問いかけた上で、某古書店の店主の言として「わたしらは、口にあてて吹くとブーブー鳴るので、ブーブー紙と子供の時分からよんでいるが」がありました。
 私はこの「子どもの領分」のどこかで「読書の共時性」なるフレーズを用いたと思います。私の貧しい読書体験でも、こういうことは多々あって、不思議というよりは、なるほどなあと、いつもながら感心しているのですが、「ブーブー紙」においてもそのような「読書の共時性」があったということです。
 話を戻しましょう。
 極言すれば、私の幼少時の最良の紙の記憶を挙げるとすれば、もう、この「ブーブー紙」に尽きるのですが、以下、思い出の中の紙について少しく書き留めてみたいと思います。 (つづく)


付記


小沢純<アンリの猫>


「キィキィの思い出と小沢純さんの絵」

 昔ね、キイキイと云う猫としばらく交際していたことがある。交際とことさらに書くのは、「一宿一飯」の関係を続けたからなんだ。
 彼女はとてもノーブルな瞳をしたボヘミアンだったし、ボクはその頃、ちょっと注文の多いレストランで皿洗いなどをしていたものだから、帰りが遅くそれでいて不規則だった。なのに彼女はボクが部屋に戻るときまってその窓辺に身を摺り寄せるようにしていたんだ。ま、そういうわけでボクと彼女は遅い夜食を分け合って食べ、当然のように彼女は一泊していくと、翌朝、ボクとともに部屋を出るわけなのだった。なにかそんな日々が夢のように続いたのだったがーーことさらの用事があろうはずもないのに夜道を小走りになって家路を急いでいる自分を発見しては思わず苦笑したりした時もたしかにあって、それからボクはボクなりの騒々しい日々に紛れ込みはじめ、ふと気付くとキィキィいなかった。
 そうしてまた何年かが夢のように過ぎ、或る日、ボクは小沢純さんの絵に出会ったと云うわけなのだった。
 そのようなことはあってはいけない事のひとつのように思われたのだったが、なにか手品のような安易さでボクは小沢さんの絵を手にいれていたのでした。
 それは瞬く間のような出来事でした。

 思うのだけれど、ボクはキィキィにとってきっとなんでもなかった者だけれど、そうしてまたそのような者だけれど、小沢純さんは以来ボクのアイドルなのです。
 だから、小沢さんの展覧会があります、なんて耳にすると、まるでチョッキのポケットから時計を取り出す白兎のように、ボクはイソイソとしてしまうのでした。
                    ―田中秋男(TV―CMプランナー)

 以上、【小沢 純展[森の生活](1989/11月6日~11月18日 於青木画廊)】の案内状パンフから田中秋男文、再録。ちなみに、同パンフには小沢氏へのオマージュの書き手として、高橋睦郎(詩人)/山下洋輔(ジャズピアニスト)/日高敏隆(京都大学理学部教授)の錚々たる名前が見えます。

                                  (2020/10/10)
         
                
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