写真 佐藤有(たもつ)

1937年生まれ
20歳の頃から身近な自然や子供たちを撮り続ける。
現在、茨城県龍ヶ崎市にて写真館を経営。


なつかしの昭和の
     子どもたち
国書刊行会

 

文 田中秋男

1948年生まれ
CMプランナーとして約35年ほど糊口を凌ぐ。
50代半ば心臓に病を得、
職を辞して文筆業に励む。


筑波の牛蒡 敬文舎 

 

 

〔幼馴染み〕

 飛ばない飛行機の話でもしようかと思います。プラモデルやブリキの玩具のことですが、しかし、プラモデルの流行はこの稿の頃(昭和30年代初め)にはまだまだ時期尚早でしたし、またブリキの玩具などは私の周辺で誰が所持していたでしょうか。
 いえいえ、記憶をまさぐれば、私の近辺に同じ年頃の一人の少年が何点かのそれらしきものを所持していました。ゼンマイ仕掛けのロボット、宇宙ロケットなどで、それらで彼と一緒に遊んだ思い出があります。果たしてブリキの飛行機がそこにあったのか、どうかの記憶は定かではありませんが。
 彼のところへは、就学前も事後もよく遊びに出かけました。その辺の事情を少しく書けば、彼は私と同じマケ(一族郎党)に所属し、よって同じ姓を戴いていたし、家同士も昵懇でしたから、私たちは乳飲み子の頃からの遊び相手であったようです。その証拠に、私の記憶の中にはねんねこ半纏に包(くる)まって、それぞれの祖母ちゃんに負ぶさり、お守りをされていた思い出があります。その画像はヤケにはっきりしており、私にはねんねこ半纏の絵柄さえ目に浮かぶほどです。彼のねんねこの方が私のものと較べてなんとも華やかで、いいなあと羨ましく思った記憶さえあるのです、まさかねえ。
 では、その記憶を記憶のままに記せば、それぞれの孫を負ぶった祖母ちゃんが二人、どこやらの庭先で、季節は秋、なぜか夕間暮れで、なぜそんなことがわかるかといえば、庭の生垣(くね)際に大きな柿の木があり、たわわに生った小ぶりの柿の実を見上げていたからです(その向こうは茜の空です)。しかも、その柿の実は甘柿で、私たちの垂涎の的であったことさえ、幼児の私にはわかっているのです。そして、祖母の背中のねんねこの中でぬくぬく包まっていることの心地よさ、隣りを見れば同じように彼もまた、祖母の背中のねんねこ半纏から色白の顔を覗かせています。とまあ、そんなわけなのですが、ここにはどれほどの記憶の捏造が加わっているのでしょうか。ここで興味深いことは捏造の有無、濃淡そのものより、どのように捏造されているかですが、今は、そちらをとやかく云々してる暇(いとま)は私にありません。
 とにもかくにも、私にとってのブリキの玩具の実態はそのような事情でありましたが、プラモデルの方はといえば、その人気アイテムは主にかの戦争時の戦闘機にあったわけで、それは私の少年時のある時期を境に一挙にブームと化しました。プラモデルの流行は、私たちの少年漫画雑誌が月間から週間へとシフトされていく時宜と軌を一にしていたように思います。しかし、まだまだその兆しを見せていず、この頃の私には与り知らぬことではありました。

 〔飛ばない飛行機〕

 だから、私の「飛ばない飛行機」の思い出はブリキの玩具やプラモデルではありません。それは手作りの飛行機となります。私などはその辺の板切れをもっともらしく「キ」の字に釘で打ち付け、自分で作ったものか、それとも家人の誰やらに作って貰ったものか、そんなものを頭上に掲げてはその辺を駆けずり回り、近所のおばちゃんたちに、あら、上手に出来たわね、などと言われた口です。
 その評言は私の手にする当の工作物を指すだけではなく、どうも、私が口三味線で模倣する飛行音や、蛇行を繰り返しながらも、挙句の果てには宙返りすら交え兼ねない意気込みの(その場合、どうしても私自身がでんぐり返らなくてはならない)、私の飛行パフォーマンスを含めてのものらしいのでした。子供時代の私は地べたを転がり回ることをとかくに好んだので、女の子ではあるまいし着衣の汚れなぞ誰が意に介するものですか、よって、でんぐり返りなどはお手のものでした。そんな際での、彼女たちのひとりの人のコメントはいつも定まっていて、あらあらあらあら、家に帰ったら祖母ちゃんに褒められるわよ。褒められる? その人は私の、泥んこ塗れの衣服のことを言っているのです。
 確かに、私は癇性なほどの潔癖症である祖母ちゃんには毎日のように叱られていました。その際、彼女は先の幼馴染みの少年の名を挙げ、呆れたように、なんでこうも違うのかね、土に塗れた着衣を物差しでピシャピシャ叩きながら、彼を見習いなさいと口喧しく口説くのです。そんなことを今更言われても、私に言わせれば私は彼ではないのだし、困るよなあと、全身くまなく祖母のピシャピシャを受けながら(両手を挙げてその場でくるくる回る私)、思ったものです。
 彼は鄙には稀な色白の美しい子供で、蒲柳の質の優等生。そこへいくとこちらはモロに山猿タイプ、見習えと言われても如何せんその出来が違います。今ならムリムリと歯牙にもかけないところですが、祖母ちゃん子の私は、その場は傾聴の風を装い、いかにもしおらしくしていますが、典型的な鶏頭(とりあたま)で、すぐる日には汚れん坊の本領を遺憾なく発揮――ですから、先のおばちゃんたちの「家に帰ったら祖母ちゃんに褒められるわよ」になるわけなのでした。
 実は、私にはこれが逆説的表現、一種のアイロニーであることは子供心に薄々わかっていて、なおかつ、そんなに感心するほどの表現でもないぞと思っていました。それに付けても、先の「上手にできたわね」もそうですが、おばちゃんというものはいつもいつもそんなことを言うのはなぜなのでしょう。よもや褒められているわけではないのですから、からかわれているのです。とはいえ、そこにはさしたる悪意も感じられないのですから、尚更、私は面妖な心持ちになるのでした。
 子供の私は、その頃はもう、おばちゃんたちのそんな心情の機微について検証することを半ば諦めていましたが、というのもそう言われたからって、そんなにイヤな気持ちはしなかったのだし、何やらこちらに得意な気分もあったのですから――当然、彼女たちをつれなくやり過し、私は一顧だにしません、ひとり遊びに興じるだけです。すると、私の背後では、私の無我夢中に端を発しただろう笑い声が湧き挙がるという仕儀、実に、失敬。
 憐れむべきことには彼女たちは何もわかっていないのです。お粗末な簡易な木切れを頭上に掲げて駆けずり回っているだけに見えようと、これはこれで架空の遊びであることは私に百も承知されていたし、それでもなお、何処にあっても興が乗ればたちどころにわが身が天空に舞い上がる、そのことが無性に面白いのだなどとはおばちゃんたちにはわからないのです。しかも、いざともなれば何ほどかの対象物がなくってさえ、両手を広げさえすればそれが即ち飛行機の翼、私はどこでだって飛べるし、いつだって飛べたのです。
 再度言います、魔女が飛べたように、魔法の絨毯が飛べるように、私は飛べたのです。ご理解いただけるでしょうか、わが愛すべき、私を愛してくれたおばちゃんたちよ。

     ☆☆☆

 「空を飛ぶことの、なんと自由なことよ! それは神の力を人間に与えるのだ! 私は船員たちのたどる海外線からも、地上の人間の道路からも、超然としていられるのだ。私は引こうと思えばこの線を、北は北極へも、あるいは西は太平洋を越えて、あるいは南東はアマゾンのジャングルへも引けるのだ。まるで私は、魔法の街をどのようにも使える魔法使いのようなのだ。もしこの図面の記号をコンパスの方位盤に移し、方向舵と操縦桿(そうじゅうかん)をしっかりと押えておきさえすれば、私はどこへでも行きたい土地へ運んでもらえるのだ。」――「翼よ、あれがパリの灯だ(上)」(リンドバーグ/佐藤亮一訳、旺文社文庫)より。

「どうして帰国を急がねばならないのだ? まだまだ前途には新しい冒険が待っている。セント・ルイス号さえあれば、私にできないことは何もない。この機は私をどこへでも連れて行ってくれる。アラビアン・ナイト物語からじかに出て来たような、それこそ本当に魔法の絨毯(じゅうたん)なのだ。いよいよヨーロッパを出発するときは、ふたたび操縦席におさまって、エジプト、インド、中国を通って世界じゅうを飛び、最後に東に飛んで西部に着くことができる。地球上で私の行けないところはない。」――同、「翼よ、あれがパリの灯だ(下)」より。

   〔私の画業〕

 上述のひとり遊びで、私が想定していた飛行機はお客さまを乗せたりする旅客機などではありません。断然、闘う飛行機でした。幼少の頃、前世紀は二度目の世界大戦時のそれらに、私はどんなに夢中だったでしょうか。ノートの至る所に、敵国のそれらと、その名にゼロの称号を戴くわれらが戦闘機を描いては、なんとも華々しい空中戦を闘はせしめました。
 ここで私は、当時の少年漫画雑誌の口絵として必ず掲載されていた小松崎茂画伯の戦争画、その画業について何ほどかのことを語るべきでしょうか。彼の描く旧帝国日本を代表した戦艦や数々の戦闘機の雄姿、それらを、私たちは無邪気に楽しみましたが、私のペンはそちらに向かわず、以下「私の画業」の方を専らとします。
 私の最も得意とするところは敵味方どちらの戦闘機であれ、機体から火を噴き墜落する、そこのところです。工夫に工夫を凝らし、様々な墜落模様を、鉛筆を舐め舐め描いたものです。機体から噴き出す炎は、朱色の鉛筆で銃撃音とともに烈しく着色され、ノートの紙面なんか、もう、余りに興が乗りすぎて書き破いてしまうこともしばしばでした。一旦、佳境に立ち至るや、私はどうにも手がつけられません。戦闘機同士の銃撃戦は烈しさをいや増し、なんと敵艦に拠る艦砲射撃なども加わっては至るところに火柱や水柱が揚がり、撃墜したりされたり、空中爆発したり、あれやこれやを描き殴り、挙句の果てには鉛筆を鷲掴み、紙面全体にヤンチャの限りを尽しては塗りつぶしてしまうのでした。
 而して、私は憑きものが落ちたように我に帰るのですが、部屋でのそんな私を姉が見かけようものなら、概ね、その反応は至極冷淡なもので、触らぬ神に祟りなし、眇めで見遣っては冷笑のひとつもあるところ。しかし、私は不思議と気にならないのでした。いつもなら、そんな皮肉な笑いは私の逆鱗に触れ、癇癪玉のひとつや二つ破裂させても可笑しくはないはずなのに、今は当の姉にむしゃぶりかかっていく気力もないのです。
 私の画業のもうひとつのお気に入りのモチーフといえば、蜂の巣状に機体が銃撃され、至るところに手酷い損傷を受けた戦闘機。その垂直尾翼は半ば捥げ落ち、主翼に至っては致命的に破損しながらも、自軍の基地へと飛行する見るも無惨な戦闘機の姿です。その機体のパイロットは勿論この私なのですが、念には念をいれて、その損傷具合を微に入り細に渉り描き分けます。我が愛機は2Bの鉛筆による黒煙を曳きながら、絶妙な操縦技術と神の加護により奇跡的な帰還を果たします。そして、性懲りもなく奇跡は飽きるほど繰り返えされ、私は基地の戦友達の驚きと称賛と歓呼の声を、なん度もなん度も聞くのでした。
 そうこうするうちに、やがて私は、ノートの下隅に簡易な戦闘機をページ毎に描いて「パラパラ漫画」、即ち、今をときめくアニメーションの原理を発見します。
 そこには上述したスペクタクル、あの炎上シーンや墜落シーンがより劇的に表現されるでしょう。この嗜好の昂じた私は、終には紙切れを束ねた自作のパラパラ漫画を作ったりしました。画用紙の切れ端に、一枚一枚、微妙な変化を計算しながら描いていきます。炎上や墜落、それらをどうコマ割リするか、何より厄介なのはそのズレ具合の粗密の加減、拘泥ればこだわるほど、そのことは実に際限がないように思われました。実際、随分と骨の折れる仕事ではありましたが、私は文字通り寝食を忘れて没頭しました。果して、これで出来上がったのだと自分を納得させ、満を持してパラパラやってみると、お手製のそれは素晴らしい働きを見せますが、何、これ、忽ちの裡に終了してしまうのでした。

     ☆☆☆

 竹とんぼや凧揚げなどの「空に遊ぶもの」の思い出、はたまた時折り空に見かけたヘリコプターなどについては、ここでは語りません。因みに、ヘリコプターは私にとっては大変、魅力的な空のオブジェでしたが、所詮、それらは乗り物の域に留まり、機会があればあんな空飛ぶオタマジャクシには一度は乗ってみたいものだを出ませんでした――(遥かに後年、私はニューヨーク市の夜の観光ヘリで幼き日の夢を果しますが、その際、同行の友人からもの好きの評言を得たことをご報告しておきます)。
 遠く大空を飛ぶ航空機は時に村の空にも見かけましたが、そんな際は「あっ、ヒコーキ!」と、必ず周囲にその発見を知らせ、立ち留まってのしばしの観賞がありました。私はといえば、一人の時などには空を見上げながら駆け出したりします。すると、空の飛行機が走りに釣られて私の視野の中で横移動するのでした。私はしばしばそんな錯視をひとり楽しみました。この発見は当時、誰にも告げたことはありません。
 では、銀色に輝く一点が青く琺瑯を引いたような穹窿を引っ掻いてゆく、あの紺碧の空の、一筋の白い瑕瑾ともいうべき飛行機雲はどうでしょうか。せめて、その尖端の移動だけでも時間の許す限り眺めていたいと、私は思ったものです。そして、そのような振る舞いにも出ましたが、お話としてはそれまでのことです。

 六月の瑕瑾と開く落下傘 (加藤郁乎)

 付記

 本文にも参考図書として挙げた「鳥と飛行機どこがちがうか」(草思社刊)の中で、著者のヘンク・テネケスは空に遊ぶものを列挙しています。そっくり引用しますーー「飛ぶおもちゃといえば、紙飛行機、凧(単純なものも風変りなものもある)、ブーメラン、フリスビー、エアロビー(ロケット)、ゼンマイ仕掛けの鳥から、ラジコン模型飛行機、人が乗れる熱気球、小型軟式飛行船、ハングライダー、超軽量飛行機(ウルトラライトプレーン)、セールプレーンまである。手製の飛行機、人力飛行機、さらにはソーラーパワーの飛行機もある」(高橋健次訳)。
 この半世紀の間のテクノロジーの進歩で、ドローンなどはいわずもがな、空に遊ぶものが豊かになりました。なんとも言祝ぐべき事態ですね。そこで、時代遅れの私がここに何ほどかの空飛ぶものを付け加えるとしたら、魔女の箒と空飛ぶ絨毯くらいですね。
                                  (2020/5/10)

映画「魔女の宅急便」予告篇



中国、湖南省の趙徳力さんの「空飛ぶバイク」
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小松崎茂画(クリック)




小松崎茂『関東大震災』
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